この物語の主人公のバスカヴィルのウィリアムとメルクのアドソとは、「清貧」と「所有」の問題をめぐる神学論争に出席して調停するために、舞台となった修道院を訪れる。バスカヴィルのウィリアムはヨハネス22世に対立するフランシスコ会士であり、元異端審問官であった。まだ若いアドソはベネディクト派であるが、ウィリアムの助手という立場である。一方のヨハネス22世側の教皇特使団には、異端審問官であるベルナール・ギーらが来ることになっている。
ちょうどバスカヴィルのウィリアムらが修道院に到着したとき、文書室の細密画家のアデルモが不可解な死に方をしていて、僧侶らは動揺していた。修道院長のアッポーネは、ウィリアムに事件の調査を依頼するのであった。
その後も連日、不審死を遂げるものが現れる。ウィリアムとアドソは、修道院の塔の中にある迷宮のような図書館に所蔵されているある書物に、事件を解明する糸口があるとして、図書館に忍び込み、その壮大な図書館がひとつの迷路をかたちづくっていることを知る。死んだ者たちは、この図書館のある本を手に入れようとしていたのではないのか。また、彼らの死は「黙示録」の記述に沿っているのではないかと推理する。そしてウィリアムは厨房係のレミージオとその助手のサルヴァトーレとは、異端のドルチーノ派と結びつきがあったのではないかと気がつく。
ひとつには、たしかに連続殺人事件の真相をバスカヴィルのウィリアムとアドソのコンビが解明しようとする、「中世のイタリアの修道院を舞台としたミステリー~推理小説」と読めるのだけれども、実はもっとディープに、この書物の時制である1327年当時の、アヴィニョンの教皇ヨハネス22世とドイツの皇帝ルートヴィヒ4世との対立を背景に、キリスト教内部での「清貧論争」、そして「異端審問」という事象の実態が描かれる。
ベルナール・ギーが修道院に到着し、皇帝派、教皇派、そして中立の立場をとる修道院長らが参加して神学論争が始まる。ベルナール・ギーはヨハネス22世に仕えた教皇派であり、フランチェスコ会のバスカヴィルのウィリアムはいちおう皇帝派ということになる。「キリストの清貧」をめぐっての論争はだんだんに熱を帯び、互いにののしり合うようになり、もはや建設的な議論も不可能と思われる。バスカヴィルのウィリアムも「調停」の立場から長い論説を行うが、外でベルナール・ギーの弓兵が不審な動きをするレミージオとサルヴァトーレとを捕え、次の会議の場はベルナール・ギーによるレミージオに対する「異端審問」というか尋問の場となり、いわば「弁護士のいない」レミージオはベルナール・ギーという検察官による一方的な告発を受け、ドルチーノ派への加担を告白させられたばかりか、この数日の修道院内での殺人の犯人にもされてしまうのであった。ドルチーノ派の指導者のドルチーノはフランチェスコ会の出身であったし、一方のベルナール・ギーはかんたんに言うと「反フランチェスコ会」のドミニコ会である。
この修道院内で起きた悲劇を受けて、修道院の盲目の長老のホルヘは全員に向けて、反キリストの到来についての終末論的な説教を行う。
この「異端審問」をもってフランチェスコ会、皇帝派に勝利したと認識したベルナール・ギーは、翌日にはレミージオらを引き連れて修道院を出るのであった。
一方のフランチェスコ会の面々は、先のことを考えて逃走するものもあったし、バスカヴィルのウィリアムも「事件を解決できなかった」と判断され、修道院長に翌日には修道院を去るようにと命じられるのだった。
もちろんレミージオが犯人だなどとは思わないウィリアムは、その夜真相を解明するためにアドソと共に図書館の迷路へと足を踏み入れるのであった。暗号を解明したウィリアムは、謎は<アフリカノ果テ>と名づけられたスポットにあると、<アフリカノ果テ>を探すのだった。
こうして、「キリストの清貧」問題からの異端の件、当時の皇帝派と教皇派との対立についても語られることになるが、さらにボルヘスの「バベルの図書館」を思わせる、当時のすべての書物を所蔵しているのではないかというような図書館の謎が、読者の前に繰り広げられる。このようにこの『薔薇の名前』、まさに「複合的」な本ではあるのだが、さらにこの本の冒頭に書かれている、この本が「わたし」によって発見され翻訳され、そして刊行されるまでのストーリーを読めば、この本はまさにでっち上げられた「偽書」ではないかという疑いを抱くことになる。いやいや、その冒頭部を含めてすべてがこの『薔薇の名前』という、仕組まれた書物なのだ。
そして「プロローグ」で、メルクのアドソがこの「手記」を書いている場面を読めば、この書物全体の「語り手」であるアドソのことが、どこまで信頼できるのか、という問題もあるのだ。
‥‥などという問題を含む書物である、ということを確認しながらこの本を読み終わったのだが、今でも映画の印象が強いので、どこか「改変されている」映画に引きずられてしまっている自分がいた。
今回読み終えてまず最初に思ったのは、「バスカヴィルのウィリアムはほとんど成果をあげてはいないではないか」というか、むしろ「大失敗」だったではないか、ということだった。修道院での「神学論争」でもベルナール・ギーに勝ち逃げされているし、そもそもの「連続殺人事件(と言っていいのか)」でも、「犯行の裏には『黙示録』がある」という推理はみごとに外れていたわけだし、修道院の火災の原因は彼の失策にあると言ってもいいのではないのか。
そういう意味で、この作品を「謎解きミステリー」と捉えるなら、読者が読むことになるのは「犯人を捕らえられなかった探偵」の物語だろう。それでも読者が読むのは「探偵によるち密な推理」の過程であって、それはそれで充分に面白い。そしてこの本のラストはその「推理」の外側で、ウィリアムの「推理」を裏切るかたちで進行する。
バスカヴィルのウィリアムがメルクのアドソと「推理」を組み立てて行く過程は、「図書館の迷路」と重ねられてすこぶる面白くも興味深く、一面でこの本のもっとも面白いパートだったかもしれない。

このとき、本のタイトルページに付加された「図書館の迷路」(上図)をたよりにしながら「今、ウィリアムとアドソはこの迷路図のなかのどこにいるのだろう」と探って行くと、ちゃんとその「場所」は特定できる。そして二人の移動の軌跡も追って行けるのである。
まあそんなことをやったからとて、何か新しい読み方につながったり、新しい発見があるわけでもないけれども、実のところ「ウンベルト・エーコはよくもまあこ~んな複雑な迷路を考え出したものだ」と、ひたすら感心してしまうわけだし、ラストのホルヘ老との対峙など、ちょっとエキサイティングしてしまう。
「すべての災厄のはじまり」であった例の書物のこと、なぜホルヘはその書物に書かれたことを隠そうとしたのか、中世キリスト教のなかで興味深いことではあったし、ひとつのこの本の主題である「正統と異端」のことから血みどろの歴史が繰り広げられたことのなかにウンベルト・エーコが、当時の「赤い旅団によるモーロ誘拐殺害事件」を重ねて考えていたというのも、ドルチーノ派だったレミージオが、あることないこと含めて語った恐ろしい話(「テロリストの告白」のようだった)と合わせても、ゾッとしてしまうものだった。
多面的な読み方ができる本であり、「本についての本」であるメタ書物という側面も併せ持つこの本、表面的な面白さからはみ出して、どこまでも「奥深い」書物ではあるだろう。わたしが読んだのはそのごく表面でしかなかったか、という思いに囚われている。
