わたしが和室へ行くとき、ニェネントくんはわたしの先回りをして和室へ行き、転がしてある「ネコトンネル」のなかにもぐって行って隠れているフリをする。もともと和室のベッドの上とかで丸くなっていたときも、わたしが和室に入る前にベッドから跳び下りて、「ネコトンネル」のなかに隠れるのだ。そうするとわたしはもうニェネントくんとの「お約束」で、「ネコトンネル」のなかのニェネントくんの頭とかお尻をなでてあげ、さもなければ「ネコトンネル」の真ん中に開いている穴から手を突っ込んで、それで遊んであげるのがこのところのお決まりの「日課」になっている。
ニェネントくんもこの「ネコトンネル」にもぐって行って、それでわたしがニェネントくんをかまってあげるということが気に入っているようで、毎回毎回、いっつも「ネコトンネル」にもぐり込むのだ。わたしがニェネントくんに買ってあげたおもちゃの中で、いちばんニェネントくんが気に入ってくれたのがこの「ネコトンネル」ではないかと思う。
この日は、わたしがベッドで寝ているときにも、自分で「ネコトンネル」に頭を突っ込んで通り抜けたりすることを繰り返していた。わたしがかまってやらなくっても、「ひとり遊び」で「ネコトンネル」を楽しんでいるようだ。

今日はきのう深刻だった「体調」も良くなっているように思えるが、外を歩いたときにまた体調が崩れるのではないかという「畏れ」がある。
今読んでいる『薔薇の名前』、もう少しで上巻を読み終えられるのだけれども、その「もう少し」が、読書になかなか集中できなくって進まない。
今は、当時のキリスト教の「清貧」という概念をめぐっての「異端」のもんだいが追及されていて、ここが実はこの本のいちばんのポイントではないのかという段落。語り手のアドソとバスカヴィルのウィリアムが僧院長アッボーネと論争を繰り広げ、このあとアドソはウィリアムに数多くの疑問をぶつけ、さらにアドソはウベルティーノとの対話を重ね、当時のアッシジのフランチェスコの説いた「清貧」と、このとき「異端」として排斥されたドルチーノとの思想の違い、そしてそのなかで平信徒はどのように動いたのかを知ろうとするのだ。めっちゃ面白いのだが、とにかくわたしの読み進めるのが遅いし、すぐにほかのことに目移りしてしまう。
テレビはもうオリンピックは終わったというのに、いまだに(特にフィギュアスケートの)日本選手のことばかり持ちあげているし、この日にはついに大谷選手も日本に帰国してしまい、そっちの報道も増えてしまったのだ。
高市首相は「国民会議」なるものを招集し、初会合を開いたというが、いったい何が「国民」会議なのか、さっぱりわからない。なぜ国会ではないところでわざわざこういう「会議」をぶたなければならないのか。いわゆる「国民」なんか参加していない「閉ざされた」会議なのに、どういうつもりなのか。国会でやればいいことなのではないのかね。
けっきょくこの会議に、野党として参加したのは「チームみらい」だけのことで、「日本共産党」も「れいわ新選組」も呼ばれなかったし、「参政党」も参加を拒まれたという。「中道改革連合」や「国民民主党」は、「わけわからん」として参加を見送っている。
どうやらこの「国民会議」なるもの、給付付き税額控除、消費税減税について話し合うものらしいのだが、どうも野党から唯一、消費税減税に反対する「チームみらい」が加わっているあたりが「キモ」で、つまり(わたしの考えで)選挙前に「食品消費税の(2年間)廃止」はわたしの悲願だと(心ならずも)言ってしまった高市氏が、「いやいや、消費税減税なんてやりたくないぜ」ということを通すためにこの(自分の都合のいい)「国民会議」なるものをでっち上げ、そこで「チームみらい」が消費税減税に反対するわけで、高市氏はそれを言質として「『国民会議』を開催したところ、消費税減税には反対との声も大きく、そこに国民の声を聞き、消費税減税はやらないことにしました」とやりたいのではないだろうか。
まあ「壊れた水道の蛇口からとめどなくあふれ出る水のようにウソを垂れ流す高市氏」なら、そういうやり方でウソをごまかしたりすることだろう。
あと、この「国民会議」なるもの、先日トランプがぶち上げた「平和評議会」というものの模倣なのではないだろうか。ウソをついたあと、そのウソをごまかすのではトランプの方が高市の先輩、そのやり方をマネしてるのではないのか。とにかく高市氏には政策立案の頭脳の持ち合わせはないようで、彼女が規範として模倣するのは、故・安倍晋三、そしてトランプということなのだろう。
高市氏が今回の総選挙で当選した自民党議員全315人に、3万円相当の「カタログギフト」を贈ったのだということももんだいになっておるが、長くなるのでそのことはまたいずれ。