ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ジュ・テーム、ジュ・テーム』(1968) アラン・レネ:監督

  

 自殺を企てて一命をとりとめたクロード・リダー(クロード・リッシュ)は、「時」を研究する「クレスペル研究所」という組織の人らに誘われ、タイムトラヴェルの実験の被験者となる。「ごく最近に死の淵をさまよった」経験が被験者の条件らしい。
 倉庫のような殺風景な実験室の奥に、巨大な白い百合根(またはニンニク?)のようなタイムマシーンが置かれていて、そのまわりを器具を乗せた科学者たちの机が囲んでいる。タイムマシーンの内部は一面肌色のクッションのようで、そこにふわふわのソファーベッド(?)が置かれている。かたわらの円形の透明プラスチックの中には、先にタイムトラヴェルの実験を受けたというマウスがいる。そのマウスでの実験は成功したと思われるが、マウスは自分の体験を語れないので真偽はわからないのだ(笑)。
 科学者らはクロードに、「ちょうど1年前に起こった過去の1分間を再び生きることになるだろう」と告げる。
 実験が始まり、タイムマシーンの中で横たわるクロードは、彼にとって運命的な恋人のカトリーヌ(オルガ・ジョルジュ=ピコ)と海辺で遊んでいる自分へとワープする。それがちょうど1年前のことなのだ。
 そのうちにクロードは自分の別の過去へとワープし、その過去はまた不意に別の過去へと移行し、またさいしょの海辺の場面を繰り返したりする。
 実験室では科学者らが「彼は戻って来ない! 実験は失敗だ!」と右往左往している。クロードは「現在」に戻って来れないまま、過去のあらゆる時点にワープしつづける。それは、クロードとカトリーヌとの「愛」と「別れ」の過程をたどることになるだろう。
 そして、実はクロードはカトリーヌを殺した、または殺そうとしていたのではないかと、観客に伝わるだろう。さいしょの海辺だとかいくつかのポイントを何度も繰り返しながら、彼は自殺を試みることになる。
 自殺を試みたとき、クロードの体はタイムマシーンの外、研究所の外にワープし、科学者らに発見される。
 クロードのいなくなったタイムマシーンの中には、マウスだけが残されていたのだった。

 つまり、タイムトラヴェルをしているクロードの体験は、まさに映画の「ジャンプカット」そのものであり、実はわたしら観客が観ている映像は、編集されてつながれた「映画的映像」ではあるけれども、それはそのままリアルなクロードの「体験」そのままの映像なわけなのだろう。「時間をジャンプ、ワープして旅をする」ということがこの映画の「主題」だろうが、それはそのまま自分の「記憶」をたどるトリップ。そのなかからクロードのカトリーヌへの思いが浮かび上がってくるだろう。

 たとえば映画で、ある人物のある時間内の体験を忠実に再現しようとすれば、それはノーカットのワンショット、長回し映像ということになるだろうけれども、この『ジュ・テーム、ジュ・テーム』では、観ていて「うわ、ジャンプカットばっかりだ」と思うのが、実のところクロードの体験を忠実に再現していることになるのだろう。映画的実験がそのまま「リアリズム」になっているというのか。そういう意味でも、この映画全編が大きな「実験的試み」といえるのだろう。

 じっさい、あのジル・ドゥルーズの著作に『シネマ』という2冊本があるのだが、その2冊目『シネマ2*時間イメージ』のなかでもっとも多く語られている映画こそ、アラン・レネの『去年マリエンバートで』と、この『ジュ・テーム、ジュ・テーム』なのである(読んでないけれども)。
 つまり『去年マリエンバートで』では、男が女に「去年マリエンバートで会いましたね」と語りかけるけれども、女はそんなことはないという。しかし、女は「会ったのかもしれない」と思うようになる。女の夫は、「去年のマリエンバートのこと」を知っているようだ、という作品だと乱暴に言ってしまって、ここで「去年」と「今」という、映画のなかの「時間」、映画のなかの「記憶」のことが問われている。
 そして、この『ジュ・テーム、ジュ・テーム』でも「映画のなかでの1年前」ということから、登場人物クロードの「記憶」、そしてまさに「時間イメージ」のことが描かれているわけだろう。

 こうやって書いて行くと、なんか書きながら自分でも「なるほどね~」とか思ってしまうけれども、観客として映画館のスクリーンを観ているときには、実は脈絡のないようなジャンプカットの連続に、「え?どういうこと?」と思ってしまったのだった。
 しかもわたしは観ていて大きなミステイクを犯してしまっていて、それはカトリーヌ役のオルガ・ジョルジュ=ピコのことはアラン・ロブ=グリエ(『去年マリエンバートで』の脚本家だ!)の監督する映画に出ていたので知っていて、その顔も記憶しているつもりでいたのだけれども、この映画のなかで登場するたびに顔が違うように見え、それでわたしは「今出ているのはカトリーヌではない別の女性だ」などと思い込んで観ていて、勝手に「今映っているのはクロードの妻で、カトリーヌはクロードの愛人なのだ」などと思おうとしていたのだ。実はあの女性も、この女性も、たいていはオルガ・ジョルジュ=ピコで、つまりカトリーヌだったのだ(そうでない女性も出てくるが)。
 実はこのことはアラン・レネ自身も近いことを思っていたみたいで、「登場する女性たちはもっとルックスの異なる女優を選べばよかった」と反省していて、「みんなオルガ・ジョルジュ=ピコに似すぎていて、観客に混乱を招いてしまうだろう」と言っていたということだ。はい、わたしが、そんな「混乱した観客」の一人です。
 そういうわけで、わたしはクロードのカトリーヌとの関係を大いに読み違えていたことだろう。マジに、「もう一回観に行こうか」とは思っている次第です。

 さて、この映画の制作過程についてだけれども、アラン・レネは、『ラ・ジュテ』のクリス・マルケルに勧められて読んだジャック・スタンバーグの小説を気に入り、彼に新作映画の脚本を依頼した。彼は「非常に短いシーンを(デッドタイムを伴って)積み重ねて、それらを同じ物語で結びつける方法」を模索した。このようにして、主人公が自分の人生の瞬間をランダムに追体験する「タイムトラヴェル」のアイディアが生まれ、アラン・レネに提示した(この「タイムトラヴェル」というテーマは、『ラ・ジュテ』と共通のものでもある)。アラン・レネはそのアイディアが気に入り、ジャック・スタンバーグと共同で5年間この脚本に取り組んだのだという。だからつまり、アラン・レネがこの作品の構想を抱き始めたのは、まさに1961年公開の『去年マリエンバートで』を撮った直後、だったのではないだろうか。
 『ジュ・テーム、ジュ・テーム』は1968年に完成し、その年のカンヌ映画祭に出品されたが、この年のカンヌ映画祭はいわゆる「五月革命」の渦中で、映画祭自体が多くの抗議を受けて中止されてしまい、この作品が上映されることはなかった。のちに映画館で公開はされたものの、当時の政治的背景もあって映画館に客は来ず、大きな赤字を出してしまった。しかし、サンセバスティアン国際映画祭で、主演のクロード・リッチは最優秀男優賞を受賞している。
 近年になってこの作品への再評価の声も大きくなり、こうやって50年以上の時を経て日本の映画館でも(正式に)初公開されたということも、そういう「再評価」の声によるものなのかもしれない。