今わたしは、ブニュエルの作品を(観ることのできる範囲で)公開された年の順に観ているが、先日観た『ロビンソン漂流記』(1954)のあと、この日観た『ビリディアナ』(1961)までに7本の映画をつくっている。その中にはイタリアとフランスとの合作映画『それを暁と呼ぶ』(1956)、フランス・メキシコ合作の『この庭に死す』(1956)、『熱狂はエル・パオに達す』(1959)(この作品はジェラール・フィリップの遺作)などの、メキシコ外の資本で撮った作品もあった。
1960年に、英語で撮った『若い娘』という作品がカンヌ映画祭に出品され、その映画祭でブニュエルはスペインの若い映画監督のカルロス・サウラに出会う。サウラは2年前に自らの映画会社を設立していて、そこでブニュエルに母国で新作を撮ってもらいたいと熱望したのだ。
一方、メキシコ人俳優のシルヴィア・ピナルもブニュエルの映画への出演を熱望し、プロデューサーで夫のグスタボ・アラトリステを説得して製作資金の援助を申し出た。さらに別のプロデューサーからの援助も取り付けたブニュエルは、1960年12月からマドリードに居を定め、この新作『ビリディアナ』の準備に入ったのだった。
ブニュエルは「作品制作の絶対的自由」を保証された。脚本はかなり不道徳で宗教への冒涜的なものとなり、そのままスペインの検閲官に提出されたが、じっさい皆がおどろいたことに、わずかな修正とラストの変更の指示しか出されなかった。そしてブニュエルは、このラストを「修正前」よりも不道徳なのでは、という修正を施したのだった。
充分な資金と優れた能力を持つスタッフ、経験豊富なキャストによってスムースかつ迅速に制作は進んだ。
映画の完成品はカンヌ映画祭のスペイン公式出品作となり、『かくも長き不在』と共にパルム・ドールを受賞したが、数日後、バチカンの公式機関紙がこの映画を「カトリックだけでなくキリスト教への侮辱だ」と非難した。
結果、スペインからカンヌへこの作品を送った責任者は解任され、スペインの2つの映画制作会社は解散、そしてこの映画は以後17年間、フランコ総統の死までスペインでの上映は禁止されたのだった。
う~む、英語版Wikipediaでは、冒頭にこの作品は「コメディドラマ」だと書かれているのだが、基本的に、観ていて笑いを誘われるような場面はほとんどない(ホームレスらの乱痴気騒ぎはおかしいが)。しかし、「そういう展開かよ!」ということは感じるし、「なぜそこでそのような描写が?」とか「それはひどい!」というようなシーンはけっこうあるわけだ。
主人公のビリディアナ(シルヴィア・ピナル)は見習い修道女で修道院で生活しているが、修道女になる前にシスターに、ビリディアナのただひとりの親戚であるドン・ハイメ(フェルナンド・レイ)に会いに行くようにと言われる。
ビリディアナは気が進まないままに、ラモナという召使と二人っきりで暮らしているドン・ハイメの荒れ果てた屋敷を訪れる。ハイメは親切にもてなしてくれるが、彼女の滞在最後の日、睡眠薬を飲ませて眠らせ、彼女を犯そうとする。されど一線を超えられなかったハイメだが、目覚めたビリディアナに「あなたはわたしの亡き妻にそっくりなので、つい犯してしまった」と嘘の告白をする。
ビリディアナが屋敷を出て行くと、罪の意識にさいなまれたハイメは自ら首を吊って自殺する。どうやらハイメはかなりの遺産をビリディアナに遺したようだ。
ハイメの言うことを信じて修道女になることをあきらめたビリディアナは、ハイメの屋敷で暮らすことにする。屋敷にはやはりハイメから遺産を得たらしいハイメの私生児のホルヘも、恋人のルシアと共にやって来るのだった。
ビリディアナは町の浮浪者らに声をかけ、屋敷に呼び寄せて「貧者救援活動」を始めようとする。一方のホルヘは荒れ果てた屋敷を改修し、屋敷の土地を耕し始める。
屋敷の生活に飽いたルシアは、ホルヘが屋敷に残ったラモナと親しくすることにもうんざりし、屋敷を出て行ってしまう。
ビリディアナに集められた浮浪者たちの中でもいざこざが起きたりもし、良心的な人たちは「ここでは暮らせない」と出て行き、つまりロクでもない連中ばかりが残ることになる。
あるときビリディアナとホルヘとラモナは町へ出かけてしまい、そのあいだに浮浪者たちは屋敷の中を荒らし、乱痴気騒ぎをおっぱじめるのだった(このときに食卓を囲む浮浪者らが「最後の晩餐」のパロディのポーズとなる)。そのさいちゅうにビリディアナらが屋敷に戻ってくるのだが、浮浪者らに襲いかかられてホルヘは縛られ、ビリディアナは強姦されそうになる。ホルヘが浮浪者のひとりに金をやり、首謀者を殺させることで騒ぎは収まり、ラモナの呼んだ警察に浮浪者らは連行される。
そののちのある夜、ホルヘとラモナが部屋で音楽をかけてカードゲームを楽しんでいるところにビリディアナが来るが、ホルヘが「ゲームを教えてあげるから3人でやろう」と誘うのだった。
ま、ヤバい映画なわけだけれども、例えばビリディアナがハイメの屋敷に到着し、自分の部屋でストッキングを脱ぐところで「不必要に」彼女の太ももを映したりするブニュエル。もう「足フェチ」なんだからしょうがないよね、というところか。
そういうのではないが、この作品のテーマに絡んだあるシーン、馬車に引きずられて必死に走る犬の姿をホルヘが見て、「かわいそうじゃないか」とやめさせようとし、けっきょくその犬を引き取るのだが、そんなホルヘの横を別の馬車が、やはり犬を引きずりながら走って行くのだった。
これはビリディアナのやろうとする「慈善」にも言えることで、彼女が町で目にして救おうとする浮浪者は、「それですべて」ではなくってごく一部だろうし、ほんとうに救われるべきなのは、屋敷に残った「ゴロツキ」ではないだろう。
そういうところで、この映画でブニュエルが言っていることは、「宗教批判」とかを超えてもう少し「普遍的」なことを訴えているようではあり、その視点からのこの世界の「宗教」への批判になっていると感ぜられ、単に「アンチ宗教」の位置から宗教のことをからかっているわけではなく、宗教人はここで指摘されることを考えるべきだろうと思う(まあ、「最後の審判」のシーンで怒るのは無理もないだろうが)。
ラストのシーンはずいぶんと「やんわり」としたエンディングだけれども、あそこでビリディアナはもう「信仰」を捨てたわけだろうし、「3人でのカード・プレイ」というのは、この3人のそういう「これから」の関係を暗示しているわけだろう。
この映画は2012年の英国映画協会のサイト・アンド・サウンド誌の監督投票で史上37位、批評家投票で110位に選ばれたという。わたしも、この映画は「ほかに類がない」すばらしい作品だと思う。
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