ルイス・ブニュエルは先にデフォー原作の『ロビンソン漂流記』を撮り終えていて、公開を待つばかりになっていたが、その公開が長期間延期になったため、先にメルセデス・ピントの小説「Pensamientos」の映画化に取り組んだ。脚本は『乱暴者』のときと同じく、ルイス・アルコリサと共同で書き上げたが、のちにブニュエルはこの映画に自伝的要素があることを認め、「この主人公にはわたし自身の何かがある」と述べたという。
ブニュエルはこの映画の撮影にあまり時間が取れなかったことに不満を述べ、リメイクしたいとも語ったと伝えられている。しかし映画にはブニュエルらしい反カトリシズム、フェティシズム、盲目的な愛と暴力、そして「若い女性と結婚する年上のブルジョワ階級の男性」が描かれ、以後のブニュエル作品にも際立つ特徴が読み取れると思う。
この映画の撮影は『忘れられた人々』のガブリエル・フィゲロアが担当し、編集も同じく『忘れられた人々』のカルロス・サベージが担当。映画は1953年のカンヌ映画祭に出品されたが、メキシコでは批評的にも興行的にも期待外れだった。しかしジャック・ラカンが自分の講義でこの映画を「パラノイア」の好例として学生たちに見せ、ブニュエルは映画自体には失望したが、そのことは誇らしく思うと語った。
今ではこの映画の評価は大幅に高まっており、「カイエ・デュ・シネマ」の選ぶ「史上最高の映画100本」に選ばれているし、25人の映画評論家による「史上最高のメキシコ映画100選」のリストで7位にランクされた。
映画は、まずは教会で「足洗いの儀式(?)」が行われているところで、主人公のフランシスコ(アルトゥーロ・デ・コルドヴァ)が参列者のなかに「美しい足」のグロリア(デリア・ガルセス)に一目惚れしてしまうところから始まる。婚約者のラウルがいた彼女だが、彼の強引な求愛に負け、二人は結婚してフランシスコのちょっと奇妙な、ガウディ的な邸宅で暮らすようになるのだが。
その後街でグロリアと会ったラウルは、フランシスコの凄まじい嫉妬ぶりについて聞かされる。新婚旅行へ出掛けた夜の列車の中で、早くも彼の嫉妬が始まり、ホテルでは彼女の友人に殴りかかる。そんな生活にたまらなくなった彼女はフランシスコの母親に相談するが相手にされない。彼の嫉妬心は募り、フランシスコが仕事のために雇った弁護士との仲を疑った上、暴力も振い、空のピストルで脅したり、寝ている彼女にロープやハサミを使って拷問を加えようとしたり、大聖堂の塔から突き落とそうとしたりする。彼と親しい神父も頼りにならないことが分かった彼女は、ある朝ついに家出する。それを知った彼は半狂乱になり、ピストルを持って入った教会で幻覚に襲われ、半狂乱となって神父に飛びかかる。
時が過ぎ、グロリアはラウルと再婚し、彼と産まれた息子と共に修道院を訪れる。そこには精神病院から出たフランシスコがおり、彼が元気なことを知ると、一家は面会せずに帰っていく。この訪問をちゃんと見ていた彼は、取り乱すこともなく、院長に自分が正気であることを告げると、庭をジグザグに歩き出すのであった。
‥‥まずは、冒頭の「足洗いの儀式」から笑っちゃうのだが、もうしっかり「足フェティシスム」であり、儀式を受ける子供の足に口づけする神父がもう、足フェチの変態にしか見えないのである。フランシスコもまた大いなる「足フェチ」で、グロリアに惚れるのはその足の美しさゆえだし、グロリアとケンカしているときも、テーブルからものを落としたときにグロリアの足を見てしまうと、それまでのケンカを忘れて「キミを愛してる!」となってしまうのだ。
フランシスコはただ盲目的にグロリアを愛してしまうがゆえ、彼女の一挙手一投足のなかに自分への不実を見、嫉妬に狂ってしまうのだ。肥大した嫉妬はグロリアを殺そうというところまで行ってしまう。このあたり、今の日本のニュースなどでも報道される「ストーカー殺人」の犯人の心理と同一のようであり、「激しく愛して別離したくないと強く思っているのに、その相手をなぜ殺してしまうのか」ということが、観ていて恐怖感をも抱くほどにリアルに描写されていたと思う。
パーティの場ではまわりの人たちが皆自分のことを話しているとの妄想を抱き、これがラストの教会では「皆が自分をあざ笑っている」と思い込んでしまう。
フランシスコ自身、自分の病的な精神に気づくときもあるが、彼には心を割って話のできる友人もなく、いちどは強く叱責した執事のところへ行き、「どうしたらいいんだ」と語るさまは哀れではある。
わたしはこの映画のさいしょから、「これはヒッチコック映画ではないか」と思って観ることになってしまった。さいしょにグロリアのあとをつけるフランシスコは、まさに『めまい』でキム・ノヴァクのあとをつけるジェームズ・ステュアートであり、教会の席にすわるグロリアの後ろ姿を見つける場面は、美術館のなかですわっているキム・ノヴァクの後ろ姿を見つけるジェームズ・ステュアートその人だ。『めまい』のジェームズ・ステュアートも病的なオブセッションを抱えた人物で、「まともではない」ということで、この映画のフランシスコに通じるところがあるだろう。
『めまい』とのアナロジーでいえば、まさに教会の鐘楼にフランシスコとグロリアとが登るシーンがあり、そこでフランシスコはグロリアを突き落とそうとするのだ。
しかし、『めまい』は1958年の映画であり、ブニュエルがヒッチコックの影響を受けたものとは考えられない。逆にヒッチコックこそ、この『エル』の影響を受けたのかもしれない。
まだヒッチコック映画を思い浮かべたシーンはさまざまにあり、例えばこのフランシスコとグロリアの夫婦関係からは『断崖』が思い浮かんだし、フランシスコの奇妙な邸宅の中でただひとり孤独に沈むグロリアの姿は『レベッカ』のヒロインだ。そう思うと、この映画でフランシスコを演じたアルトゥーロ・デ・コルドヴァという俳優、どことなくローレンス・オリヴィエを思わせる風貌ではないだろうか。
このアルトゥーロ・デ・コルドヴァという人、メキシコでは百本以上の映画に出演した人気俳優だったらしいが、キャリアの初期にはハリウッド映画にも『誰が為に鐘は鳴る』など何本か出演作があるようだ。この映画でのフランシスコ、終盤にだんだんと狂気に陥っていく演技が見事で、そのことがいちばんラストの、修道院での彼の「静けさ」を意味深いものにしていたと思う。
というわけで、わたしにはヒッチコック映画のように「男女関係を軸とした、先の読めないサスペンス・ミステリー」として、かたときも目を離せない思いで最後まで観てしまった。そして、ラストもちょっとした、「怖いオチ」ではあっただろう。わたしにはこの映画、ヒッチコック映画に勝るとも劣らぬ「傑作」だと思える。
