ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『雨の中の慾情』(2024) つげ義春:原作 片山慎三:脚本・監督

  

 つげ義春はわたしの若い頃から大ファンだった漫画家(作家)で、その作品はだいたいすべて読んでいるはずなのだけれども、わたしの記憶障害のこともあり、今ではほとんど思い出せないでいる。「ねじ式」あたりまでの作品だったらある程度記憶しているところもあるけれども、それ以降はもう思い出せない。
 この映画は「雨の中の慾情」だけでなく、「夏の思いで」「池袋百点会」「隣りの女」なども盛り込まれているということで、もうだいたい、つげ義春のそのあたりの作品は何も思い出せない。そういう意味では「先入観なしに」この映画を観られるということで、わたしはけっこう「いい観客」だったかもしれない。っつうか、そういう作品の要素を映画の中に取り入れてあっても、だから映画としてどうのこうのというものでもなく、あくまでも「つげ義春の作品」は、ひとつの「契機」なのではではないかと思う。
 ただ、映画で冒頭に持って来られている「雨の中の慾情」からの展開はその後のストーリーからは独立しているのだけれども、この映画の主人公の以後の「行動原理」みたいなものを提示している感じで、優れた導入部になっていたと思う(以後のこの作品に通底する「異様なコミカルさ」もあったし)。

 これはいちおう主人公の義男(成田凌)の一人称映画ではあって、彼が福子(中村映里子)という女性を思う気もちがずっと継続している。福子は義男が知り合った自称小説家の井守(森田剛)の愛人のようなのだが、その井守と福子は義男の家に転がり込んできて3人での共同生活になり、そんな中で義男は福子と関係を持つことになるのだ。この3人に、義男の家主のオヤジ(竹中直人)も加わっての不穏な展開は「現(うつつ)」の世界での話だろうが、これがいともかんたんに(別に眠っていなくっても)、場面転換と共に「夢」の世界へと移行して行ってしまう、という感じ。
 あまりにいろいろな「夢」のシーンの場面展開があるので、わたしは早くもそれらひとつひとつを忘れかけているし、そのまますべてを書いても異様に文章が長くなるばかりだろう。

 映画を観る前から、この映画の撮影は台湾で行われたということだけは知っていたのだけれども、いくら台湾で撮影しても「日本的な風景」にはするだろうと思っていた。それが義男の住む町の情景が出てくるとどう見たってそれは「日本」ではなく、(台湾の風景を知っていれば「あ、台湾だ」と思ったのかもしれないが)どこか国籍不明の「東アジア地区」という空気である。じっさい、井守が義男の家からひとり「南に帰る」と言って飛び出て行き、義男が福子とオヤジとでその井守の「お城みたいだ」という家に向かうとき、とちゅうで「検問所」があって通行証がないと通り抜けられず、ここでは分断された「南北朝鮮」がモデルなのかと思ってしまう。そういうのでは「夢」の中で義男が一兵卒として戦場で戦うというまさに「夢」の場面は、「日中戦争」なのだろうか。
 また、義男が自分の家から出ると昼の光なのだけれども、そのまま歩いて角を曲がるとそこは町のアーケードの中というか、そこはすっかり夜の明るさになってしまうというのも面白く、頻出する、薄暗いアーケードに屋台が並ぶような背景、そしてやはり薄暗くも乱雑にちらかった義男の部屋(部屋の外には赤い照明がと、この映画の空間を実にユニークなものに仕立てていたと思う。

 わたしが惹き込まれたのは、唐突に始まる「戦闘シーン」の撮影で、実に長い距離を俳優といっしょに走るトラッキングショットにつづいて、そのままカメラは手持ちになって俳優を走りながら追いかけるショットとか。そのトラッキングショットの背景になる戦闘シーンも動的で迫力があり、このシーンはずっと目を奪われつづけたし、わたしは「これは『フルメタル・ジャケット』ではないか」と思う瞬間もあった。
 あと、わたしの大好きなシーンは、義男と福子とが「アマポーラ」をバックにふたりで踊るシーン。このシーンは忘れられないなあ。

 トータルに「夢から夢へ」というような「目くるめく世界」の連続で、見ていて翻弄される感覚もあったのだけれども、バックに「欲望に突き動かされる」心理、それと裏腹にある「恐怖の感覚」との意識が通底していると思えたし、ラストには(これも「夢」かもしれないが)すべてを未来につなげるような「ハッピーエンド」っぽいショットがあり、観ているわたしもカタルシスを得るのだった。

 たんじゅんにストーリーを追う映画ではなく、「映画ならではの表現」で成り立つ世界ではあって、「映画の可能性」ということを体験させてくれた作品ではあったと思う。スタッフ、キャストの皆さん、ありがとうございました。