ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2024-12-03(Tue)

 この日は午前中に北のスーパーへ買い物に行くのだが、その前に西の方角のコンビニに寄り道して、それからスーパーへと行った。コンビニからの道は車の交通量の多い国道沿いの道を選ばず、普段ほとんど歩かない住宅地の中を歩いた。
 今日も空には青空が拡がり、そこまで寒くもなくって歩いていても心地いいのだけれども、歩いた道もけっこう快適だった。空き地が多くって、道の両側に家屋が迫っているということがあまりなく、ちょっと目線を上げると青空がいっぱいだし、道の両側の空き地には雑草が伸びているわけだ。車もまるで通らないし、いつも歩くこのあたりの道のなかでは「快適さ」ではいちばんではないか、などと思った。まあこれから普段この道を歩くにはわざわざ遠回りをしなければならないから、あんまり歩く機会もないだろうけれども。
 歩いていたら頭の上の電線にヒヨドリがとまっていて、しばらくじっとしていたものでゆっくり写真が撮れた。先日はヒヨドリの撮影に失敗したばかりだったけれども、この日はそのかわいい瞳もクッキリと撮影することができた。

     

 スーパー到着。この日はとなりのドラッグストアで「一品だけ15パーセント引きしますよ」という割引券を持っていたので、ニェネントくん用のカニカマを買う。まだこの割引券はあと2回使える。
 それでスーパーの方ではニェネントくんのネコ砂を買い、今日は「ニェネントくん用の買い物」中心だ。
 スーパーの店内をみていると、この日は白米5キロで2600円ぐらいのが売られていて、「今だったらコレは相当に安値だよな」と思う。はたして、これからこのくらいの価格の米がいつも売られるようになるのか、それともコレは今回だけの安値で、あとになって「しまった、あのとき買っておけばよかった!」ということになるのか、ちょっとした「賭け」の気分。この日はニェネントくんのネコ砂があるので、お米までは買えないのだったが。
 あと、最近は「たまご」もまた値上がりしているという報道をみていたので、「どうだろう」とたまご売り場を見てみる。この日は火曜日でたまごの「特売日」のはずで、今までの特売日は10個1パックで139円(税抜き)だったわけだ。同じ価格だったら買っておこうと思っていたのだけれども、コレが159円(税抜き)になっていて、「あららら」となった。
 まだまだ他の店に比べたら159円でも安いのだろう。そして、きっとこれからは159円どころか、もっと高くなる可能性もあるだろう。しょうがないからその値段のたまごを買ってもよかったのだろうが、「一気に20円値上げ」というのがショックで、この日は買わないのだった(これもあとで後悔するかもしれない)。

 12月になって、月初めはいろいろと値上げされる時期だからと、先月末に「どんなものが値上げされるのだろうか」と調べたところでは、12月の主な値上げは「スナック菓子」とかで、さほど値上げ品が多いわけではなく、それよりも次の来年1月に値上げされるものがい~っぱいあるのだと知り、特に12月の値上げ品のことはあまり気にしないことにした。しかしそういうメーカー製造品ではない「生鮮食料品」での値上げは、相変わらずいろいろあるのだ。トマトやキャベツの価格はいつまでも高いままだし、今年は白菜の価格も去年より高いみたいだ(去年までは今ごろは「1玉100円」とかいう白菜もあったと思うけれども、今は駅前の安いスーパーで四分の一カットでも100円、という感じ)。
 先日の報道で、最近は「ふりかけ」の売り上げが伸びているのだといっていた。「その気もちはわかる」というか、わたしもしばらく前に「これからは<ふりかけ>よ!」と各種ふりかけを買い集めたこともあったのだけれども、やっぱりふりかけというのは飽いてしまって、いつしかふりかけは食べ残してしまうのではあった(今でも冷蔵庫のどこかにふりかけがしまわれていると思う。わたしとしてはこういうとき、「海苔の佃煮」とかがかなり有効ではあったと思う)。

 午後からネットのニュース記事を閲覧していたけれども、先日わたしがテレビで見て「斎藤兵庫県知事」問題に関して「よく取材して、よく放映したものだ」と思っていた「報道特集」を思いっきり批判する記事が出ていた。
 それでその執筆者の主張の原点は、「私たちの民主主義は言論の自由の上に成り立っている。その言論の自由は最大限に尊重されるべき」というものだった。この主張は今でもずっと「ネトウヨ」諸氏の言い張るところのものではあり、かんたんに乱暴にいってしまえば「誹謗中傷」発言も「民主主義」なのだという主張である。実はこのような主張をされる輩は「民主主義」など否定したいと思われていて、そのような「民主主義否定」の発言も民主主義の原則のもとでは尊重されるべきなのだ、という「歪んだ論理」を駆使されているわけだ。
 そういう輩には「なぜ人は他者を殺してはいけないのか?」「なぜヒトラーのような人物が再び登場してはいけないのか?」という根本のところから、その思考の原理を問い直してもらわなくってはならないだろう。