ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『インディアナ州モンロヴィア』(2018) フレデリック・ワイズマン:編集・監督

  

 2016年のアメリカ大統領選はトランプ氏が勝利した。フレデリック・ワイズマン監督はその結果を受けて、保守的な共和党支持者が多いインディアナ州の農業の町モンロヴィアを題材に選んだのだった。
 インディアナ州は地理的には五大湖のひとつミシガン湖の南にある州で、州の中でモンロヴィアの町の位置はわからないけれども、「コーンベルト」と呼ばれるトウモロコシ生産地帯にあるようで、この作品の中でもトウモロコシの出荷のシーン、そのトウモロコシで飼育される牛や豚の姿が出てくる。

 ワイズマン監督はたしかにトランプ氏が大統領になって、共和党の地盤でもあるだろう「保守の地」としてこのモンロヴィアを撮ることに決めたのだろうけれども、いつものワイズマン監督のように、作品の中に主張を込めることは行わない。ただ対象と決めたこの土地(もしくはスポット)とそこの人々を撮り、それを編集することで、彼の言葉では「個人的な経験を詳しく描いた」作品を提示するわけで、「主題をイデオロギー的に客観的に描いたものではない」という。
 そういう意味でこの『インディアナ州モンロヴィア』でも、「登場する人たちは共和党支持者だろうか」「トランプを支持しるのだろうか」とかの政治的判断は、いっさい排除している。この映画で描かれるのは、アメリカの片田舎の農村というもの、そこで暮らす人々というもの、その「日常」の姿なのだと思う。

 作品はだだっ広い草原とそこに建つ家の遠景ショットの積み重ねから始まり、まさに観客はだんだんにこの「モンロヴィア」という町に入って行く感覚になるだろう。作品はこの町の農場、高校、教会、銃砲店、床屋、食堂などを訪れて行くけれども、その合間にはいつも、そんな広い草原や一軒家の姿が挿入されていて、「これから別の場所へ行ってみよう」というモードを示すようであった。

 通して観て思うのは、ひとつに「キリスト教精神」とでもいうものが広く行きわたっているのだなあということで、それはまさに「教会」の様子が描かれることにもよるけれども、ラストの葬儀の場面があるし、町の「タトゥー・ショップ」で皆が彫るのは「聖書の文句」だったりもする。あと、フリーメイソンの会合やライオンズクラブも描かれ、こういった存在が町の人々のバックボーンなのかと想像される。
 そして町に「若い男性」がいないこと、「アフリカ系・アジア系」の住民がほとんどいないことにも気づかされる。「若い男性」たちはどこか他の地域に働きに出ているのかとも思うが、どうなのかはわからない。
 作品の中で「町議会」のような集会の場面もあるけれども、そこで「町の今後」みたいなことも話し合われていて、「新しく町民を呼び寄せること」について、「先に住宅をつくろう」とか「いちど町を出た人たちに戻ってもらえるような町にしよう」などと議論されていた(この町の人口は1000人ぐらいのものらしいが、もちろん土地はいくらでもあるようだ)。一方で、「町の消火栓」が消火栓として役に立たないとかいう問題も。

 「やはりアメリカ」だなあと思うのは「銃砲店」の存在で、見たこともないすっごいごっつい拳銃とかが出てきて「うわあ~!」とか思うのだが、ライフル銃などは「鹿を撃つため」ということなのだが、店内に飾られている「的(まと)」が思いっきり人間のシルエットの形をしていて、それはヤバい。床屋のシーンで、お客さんが(子供も含めて)み~んな同じヘアスタイルにされてしまうのもおかしい。
 「モンロヴィア・フェスティヴァル」とかいうすっごいしょぼい「お祭り」のさまもちょっと写されていたが、売店で売られているバルーンとか見てもわたしでも「田舎だなあ」と思うし、歌手がカントリーを歌ってるシーンもあったけれど、聴いている客がまるっきしいないのは(悪いけど)笑ってしまう。
 町のカフェとかでおっさんたちが集まって、どうでもいい話をしてるシーンもけっこうあって、これが見ているとなかなかにハマるというか、話の輪のなかに入って話を聞いてる感じで、いいものであった。
 そんな集まってたおっさんたちの格好が、「こりゃあこのおっさん、共和党支持だよな」としか思えないところもあるし、車とかにやたら星条旗を立てているのも土地柄なのか。

 ラストに「葬式」のシーンがあり、狭いコミュニティだから牧師さんも亡くなられた方のことを普段からよく知っていて、故人の逸話とかを交えて、けっこう長い内容の濃いスピーチをされる。それでそのあとに墓地に行って棺を埋葬するわけだけれども、これがもうすっかり業者の仕事で、トラックに積んだ土でちゃっちゃっと穴に下ろした棺を埋めて、業者の人がその盛り土の上に無造作に花輪とかをのっけておしまい。墓地のなかでは墓石に座って休んでるおばさんとかもいるし、「あらあ、敬虔なキリスト教徒ではなかったのかいな?」な~んて思ってしまう。
 わたしはこのラストで思ったんだけれども、これって「精神主義」と「物質主義」との拮抗を描いてるんじゃないかとは思った。こういうところに、「これがアメリカだ」というところを見た思いがしたのだった。
 町の人たちは「伝統」を守ろうとしているのだろうけれども、ポロッと、こういうところにも「ほころび」が見えるような気がした。

 さいごに(別のところで)フレデリック・ワイズマンは、このモンロヴィアの人たちに友好的な助力を惜しまぬ歓迎を受け、日常生活のあらゆる場面にアクセスを許されたということに感謝を捧げていたのだった。