ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『箱男』(2024) 安部公房:原作 石井岳龍:監督

  

 石井岳龍監督は、けっこうわたしの好きな監督の一人だった。昔は「石井聰亙」という名だったけれども、まずは彼の『エンジェル・ダスト』(1994)にハマり、それからしばらくは彼の新作が公開されるたびに必ず映画館で観ていたものだった。今となってはわたしの記憶障害のせいもあって、そんなわたしが観た彼の映画の内容はどれも、これっぽっちも思い出せなくなってしまっているが。
 この安部公房原作の『箱男』は、1997年(というからわたしが石井岳龍監督の映画にハマっていた頃)に安部公房氏の承諾も得て、日本・ドイツ共作で映画化が決まっていたのだった。そして監督らスタッフ、そしてその時も出演の予定だった永瀬正敏氏や佐藤浩市氏らもドイツに渡っていて、まさに「明日クランク・イン」という日になって、日本側の都合(資金難ということだったらしいが)で唐突に「中止」となったのだという。永瀬氏などはそのショックでしばらく立ち直ることも出来なかったというが、石井監督はその後も「映画化」の望みを捨てず、こうして27年の時を経て完成、公開されたということだった。

 というわけで、わたしも原作本を読み終えたうえで観てきたわけだけれども、ここでまたバカなことから書き始めてしまうならば、(原作本を読み終えたときには、あの「側溝男」のことを思い浮かべたのだったけれども)わたしはこの映画を観て、「箱男」というのは、映画館で映画本編上映前に上映される「No More 映画泥棒」の、あの「カメラ男」に似てるじゃないか、などと思ってしまったのである。カメラを被ることで「本性、個性」が露出することを逃れ、「映画泥棒」「カメラ男」という「匿名性」のなかに埋没するこの存在、けっこう「箱男」の持つ精神性を共有しているように思えてしまうのだ(「箱男」はそもそも「カメラマン」でもあるわけだし)。このことはこの映画『箱男』のラストにも重なるようでもあるが?

 さて、映画はかなり原作に忠実につくられているように思えたが、わたし自身昨日読み終えたばかりの原作小説をしっかりと把握して記憶しているわけでもなく、そのあたりはかなり曖昧。しかしかなり原作の空気感を映像化しているようではあり、「ああ、まさに『箱男』を映画にしたのだなあ」との感慨に囚われる。
 「箱男」は永瀬正敏が演じ、「贋箱男(贋医者?)」は浅野忠信。そして「軍医殿(贋医者?)」を佐藤浩市、「看護婦」を白本彩奈という女優さんが演じている。ただし彼女は「看護婦」としては登場せず、あくまで「謎の女性」というところだったと思う。しかし彼女の存在は、この映画での大きなアクセントにはなっていた。
 「さすがは石井岳龍監督」というか、ヴィジュアル的にはとにかくカッコいい作品だ。色彩を抑えたモノクロっぽい絵が多いけれども、冒頭の「箱」の覗き窓の奥の、永瀬正敏の歌舞伎的な、麿赤児的な原色での顔のメイクアップのインパクトが大きく、映画が始まって早々に「非現実の世界」へと持って行かれた気がする。

 今はまだこの映画について多くを書く言葉を持たないわたしだけれども、途中の「箱男」vs.「贋箱男」の、箱をかぶったままでのアクションシーンには惹かれた。
 原作の「書くということ」という問題は、スクリーン全面に手書き文字をアップすることであらわそうとしていたようだけれども、「セリフ」として音であらわされる言葉ではなく、効果はあったのではないか(でも、もっともっと観念的な言葉を書いてしまってよかったのではないかと思う)。
 「見る」「見られる」という問題については、まさにこの映画のラストシーンで「映画を観ているあなたこそ『箱男』なのでは?」と問いかけられるが、そのとき段ボール箱の覗き窓から外の世界を写していた画面の、その「覗き窓」のサイズ(縦横比)が上映映画の画面の縦横比に合致していたことで、「まさに」というところではあって、「映画ならでは」のこの原作の表現として、大きく納得したのではあった。