ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『Cloud クラウド』(2024) 黒沢清:脚本・監督

  

 この作品は、第97回アカデミー賞の国際長編映画賞の日本代表作品に選出されているという。1回観た感じで、この作品ならアメリカでの受けはいいんじゃないかと思った。どうも国内の観客の評価は(想像した通り)イマイチのようだが、アカデミー賞受賞の可能性もないではない。
 ヨーロッパ、とりわけ黒沢監督の人気の高いフランスなんかと、アメリカとではその作品の好みも異なるのではないかと思っていたが、先日アメリカの映画批評サイト「Rotten Tomatoes」での黒沢監督作品の評価が、高評価順にリストされていたのを目にした。以下の通りである。

94%高評価『CURE』(97)
94%高評価『トウキョウソナタ』(08)
93%高評価『旅のおわり世界のはじまり』(19)
91%高評価『クリーピー 偽りの隣人』(16)
90%高評価『Cloud クラウド』(24)
89%高評価『スパイの妻 劇場版』(20)
81%高評価『散歩する侵略者』(17)
80%高評価『降霊』(00)
76%高評価『回路』(01)
73%高評価『アカルイミライ』(02)

 さっき、その「Rotten Tomatoes」をじっさいにみてみたのだけれど、このリスト以外にも『ドッペルゲンガー』『リアル 完全なる首長竜の日』『岸辺の旅』『ダゲレオタイプの女』はアメリカでも公開されているようだけれども、どれも50%台の評価ではある。
 このリストでは『Cloud』は90%だけれども、今わたしがチェックしたところでは評価は上昇していて、今は93%になっている。やはりわたしが思った通り、この『Cloud』、アメリカでは相当の高評価である。これはこの映画のベースにアメリカ映画のエッセンスがあるのだから、わたしは「当然のことだろう」と思っていた。
 それはわたしはアメリカ50年代のフィルム・ノワールとかの影響ではないかと思っていたのだけれども、黒沢清監督は「70年代のアメリカ映画の影響が強い」と語っているみたいだ。「70年代アメリカ映画」というと、つまり「アメリカン・ニューシネマ」のことかと思われるかもしれないけれども、おそらく黒沢監督はニューシネマへの思い入れはそんなになく、もっとハリウッド主流の商業映画への思い入れの方が強いのではないかと思う。それは黒沢監督がいわゆる「作家主義」というものに無関心なことにもあらわれていると思う。彼の興味は「犯罪映画」というジャンルにこそあるらしい。

 この『Cloud』は、要するにモラルの欠けた金儲けにまい進する「転売ヤー」が、その欠けたモラルゆえに恨みを買ってしまったヤツら、彼と同じようにモラルに欠けたヤツらの襲撃を受けるけれども、ある男の助けを得て彼らを「皆殺し」にし、新しいステップを踏み始める、というストーリーである。
 映画の冒頭での主人公の吉井(菅田将暉)はまだ「転売ヤー」を始めたばかりのようでもあり、さいしょの転売に成功してそれまで万単位の残金しかなかった銀行通帳に、一気に百万の金が入金されてほくそ笑むわけだが、悪党としては「チンケ」というか、小物感が強い。敵のヤツらに襲われても、とにかくはまず「逃げる」のである。それが銃を手に入れて、まずは自分を撃とうとするヤツを撃ち殺したとき、彼のなかに変化が生まれるのだろう。この「変化」を演じる菅田将暉が見事であるし、ここは「銃撃戦」の推移を、余計なことは考えずに楽しめばいいのであろう。

 ここでわたしは、黒沢清監督が菅田将暉に役づくりのために「『太陽がいっぱい』を観て下さい」と言っていたということを知ったのだけれども、菅田将暉は、それは主人公が「真面目に悪事を働く」感じが共通しているのではないかと思ったらしい。
 わたしも「なるほどな~」とは思ったのだけれど、そう考えるとこの『Cloud』の主人公の吉井は、『太陽がいっぱい』にとどまらず、原作者のパトリシア・ハイスミスが『太陽がいっぱい』のトム・リプリーを主人公にして書いた『贋作』や『アメリカの友人』などの連作(『太陽がいっぱい』ではラストにアラン・ドロンの演じるトム・リプリーが逮捕されることを暗示させるのだが、ハイスミスの原作ではトム・リプリーは逃げおおせて、「完全犯罪」を成立させるのだ)をトータルにして考えてもいいんじゃないかと思うのだった(それは、黒沢清監督がハイスミスの「トム・リプリーのシリーズ」をもっと読んだ上でこの『Cloud』を撮ったのだろう、ということではないが)。
 それはもちろん「トム・リプリーのシリーズ」を通して、トム・リプリーが「真面目に悪事を働く」存在であることは言うまでもないのだけれども、『太陽がいっぱい』ではずっと、自分の犯した犯罪におどおどしている小物的存在だったのだけれども、これが彼がもっと深く「悪事」に関わっていく『贋作』や『アメリカの友人』では、もっと大胆に殺人も犯し、銃も使うようになるのだ。このことは、この『Cloud』においても終盤に自ら銃を使うようになり、ステージが上がったかのような主人公と相似形みたいに思えてしまう(吉井も、トム・リプリーも、「モラル」など欠如したままだが)。
 ひとつ、この作品と『太陽がいっぱい』を比較して書くなら、吉井が「商品」を入手して自室でその「商品」を撮影してネットにアップする場面、その「商品」にライトをあてて撮影する感じが、『太陽がいっぱい』でトム・リプリーが偽のサインを練習する場面に相似なのではないか、とは思った。吉井が「商品」をネットにアップして、売れ行きを確かめるために椅子に座ってディスプレイを眺めるシーンも、リプリーが自分の偽サインの出来を確かめるシーンに対応しているのではないだろうか。

 しかし、この『Cloud』では、吉井が「ステージアップ」するための大きな「助っ人」として、佐野(奥平大兼)という存在がある。
 この佐野という男は何者なのか? 駅のホームで松重豊から銃などを受け取るところから、もっと大きな組織のメンバーであるようだけれども、ではなぜ佐野は吉井を助けるのか?

 この答えはただひとつ、「佐野が<メフィストフェレス>だからだ」と考えるしかない。そんな答えでいいのか?と聞かれても、例えば『エイリアン』を観て「あのエイリアンとは何なのか?」と問うても、「そりゃあ<エイリアン>だから」という答えしかないのと同じである。そういう意味で「佐野とは、吉井を助ける<エイリアン>なのだ」って考えるのがイイかもしれない(ま、こういうところも、この『Cloud』が日本国内の一部できわめて不評だという理由ではあるのだろうし、こういうところをすんなりと受け入れるのがアメリカの観客なのではないかと、わたしは思ったりする)。

 映画のラストで、黒沢清監督の「専売特許」というか、あのスクリーンプロセスでの「雲の中を浮遊する車に乗る人物」というのが登場して、その車には吉井と佐野との二人が乗っていて(もちろん、運転しているのは佐野だ)、以後二人が組んで「仕事」をつづければいいことを佐野が話し、つまりそこでメフィストフェレス(悪魔)に魂を売った吉井が「これが地獄の入口か!」とつぶやくわけである。まさに観ていて心のゾワゾワさせられるラスト・シーンではあった。