ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ラヴィ・ド・ボエーム』(1992) アンリ・ミュルジェール:原作 アキ・カウリスマキ:脚本・監督

 このアンリ・ミュルジェールという作家による映画原作は『ボヘミアン生活の情景』というタイトルで、プッチーニの有名なオペラ『ラ・ボエーム』の原作なわけなのだが、何でもカウリスマキ監督は「プッチーニはアンリ・ミュルジェールの原作を台無しにしてしまった」と考え、自分の手で映画化することは長年の念願だったらしい。しかしわたしは『ラ・ボエーム』のストーリーなどまるで知らない無粋な男だったので、この映画を観る上で「先入観」など何も抱かないで観ることができた。
 どうもプッチーニの『ラ・ボエーム』は詩人のロドルフォとお針子のミミとの「悲恋」をメインに描かれていたそうなのだが、このカウリスマキ版ではロドルフォは画家で、あのマッティ・ペロンパーが演じている。

 舞台はパリで、3人の売れない芸術家の、ユーモアを交えて描かれるボヘミアン生活と、その悲恋の物語。モノクロ映画でパリでも古い街並みを舞台として、古いシャンソンっぽい音楽も流れるから(ダミアとかの歌が使われていたようだ)、せいぜい1950年代あたりの設定かと思っていたのだが、映画が進行して「第二部」かのように「春」のクレジットが出て時間が進んだとき、急にガラス張りのモダンな建物が写されてちょっと驚かされる。まるで一気に何十年もの時が流れたのかのようでもあったが、いやいやこの映画、さいしょっから「現代」を舞台にしていたのだろうか。とにかく、この「春」のクレジットのあと、急激に時代が進んだようにみえる演出は、逆にこの物語の時代を越えた「普遍性」をあらわしているようではある。
 その「普遍性」とはつまり、「売れない芸術家」の食うにも困る生活のことでもあり、そういうところからは「芸術性」と「経済性」との軋轢のことになるだろうが、しかしこの映画に登場する3人の売れない「芸術家」らは、その「芸術性」においてもギャグをかましているというか。
 戯曲家のマルセルは冒頭では自分の書いた戯曲の売り込みに夢中なのだが、彼の戯曲は全21幕もあるわけで、上演可能とも思えない。作曲家のショナールは後半に彼の作曲したピアノ曲を披露してくれるが、これがアヴァンギャルドというか、ピアノをひっぱたいたり頭突きしたり、果てはサイレン音まで取り入れているわけで、これを「ダダイズム音楽」とするなら歴史に残るかもしれない。そして画家のロドルフォの作品についても、「押して測るべし」というところではあった(「いや、けっこう良かったよ」という見方もあると思うが)。まあ「時の運」というのか、3人のアーティストも急に売れてしまった、という時期もあったのだが、彼らのボヘミアンらしい放縦な生活ぶりも描かれる(3人それぞれが彼女を連れての、公園でのピクニックがいい)。

 ただカウリスマキはそういうアーティストらを「才能のない芸術家」とあざ笑うのではなく、「経済的に成り立たない芸術活動」というものの悲喜劇を描いてるのであって、そんな中でロドルフォとミミとの悲恋が際立つ。ロドルフォとミミとの会話も、
「仕事はやめろ 僕が絵を売って食わせるよ」
「じゃあ 私はなにを?」
「犬の散歩 それに掃除や家事も」
「こきつかうのね」
「いや 掃除は僕がする 君は窓から公園を見てればいい」
などという調子であった。これをマッティ・ペロンパーが、あの武骨でぶっきらぼうな感じで演じるのだ。すばらしい。

 ミミが「不治の病」で入院したとき、ロドルフォとミミを助けるためにマルセルは自分の蔵書(バルザックの初版本も持っていたはず)を売り、ショナールも愛車を手放しもして、その友情に泣かされる。
 自由気ままに生きるボヘミアン・アーティストらも、目の前に経済問題が持ち上がればつらくて悲しい思いもする。そんなつらさ、悲しさの描かれた映画だった。
 ラスト、犬のボードレールを連れて失意のうちに歩いて行くロドルフォの絵にかぶさって、日本語の「雪の降る町を」が流れる。わたしは日本人だから、その歌詞の意味も含めてあまりによく知った曲なのだけれども、これを海外の人はどう感じるのだろうかと思ったが、追体験することは不可能なのだ(この曲を歌っているのはフィンランドでレストランを経営する日本人で、カウリスマキが彼の歌を聴いて彼を誘い、録音して使ったのだということだ)。

 ロドルフォが飼う、「ボードレール」という名の犬(じっさいには「ライカ」という名らしい)も愛らしいが、カウリスマキの映画には犬がよく登場するのではないか。