台風10号は今朝、どうやら香川県の小豆島のあたりにいて、例によってゆっくりと東に進んでいるらしい。というか、今はもう台風の中心がどこにあるかということはどうでも良くもあり、ただ「雨雲」がどこにあるか、とりわけ「線状降水帯」がどこに発生するかということこそが重要だろうと思う。
ウチのあたりも窓の外では雨が降っているようだけれども、空は明るくってそんなに「悪天候」という印象でもない。「このくらいの雨なら買い物に出られるだろう」と思い、午前中に北のスーパーへと、傘をさして出かけた。
思った通りに、降っている雨の量はそれほどでもなかったのだけれども、おそらくは昨夜とかにけっこうの雨量があったのだろう、歩道の水たまりがかなり拡がっていて、水たまりを避けて歩こうとすると、なかなかに大変なのだった。
しかし道筋は雨にきれいに洗われていたというか、歩道のそばのロッカールーム前のスペースにあった玉砂利は、雨をかぶってなかなかにきれいな色を見せてくれていた。

買い物を終えてウチに帰ると、やっぱり水たまりに足を突っ込んでしまっていて、靴がぐっしょり濡れてしまっているのだった。う~ん、この靴はもう、しばらくは履けないだろうな(もうダメかもしれん)。わたしもこの土地に住むようになってもう7年ぐらいになると思うけれども、雨でこれだけの水たまりが出来ているのをみるのは初めてではないかと思う。夜のうちに降った「大雨」からそんなに時間を置かずに買い物に出たけれども、もうちょっと時間を置いて、午後になってからとか外に出ていれば、たくさんあった水たまりの水ももっと引いてしまっていて、歩きやすくなっていたかもしれない、とか思った。
ネットとかで台風関連の書き込みをみると、「『戦後最大級の台風』だなどと焚きつけていたが、まるで大したことのない台風だったではないか。ものごとを大げさに煽るメディアにはうんざりだ」という意見を多く見る。そういうのも若干「結果論」というか、九州に上陸するときにはたしかに935ヘクトパスカルとか、かなり規模の大きな台風だったのだし、それで各自が台風情報にしっかり注視して災害を避けたなら、「台風の方がポシャってしまって災害にならなかった」ということでもいいじゃないかと思う。ただ、昨日のテレビのようにいつまでもしつっこく「この台風はどこへ行くのか」などというばかりでは情けなかったわけだが。「これからどのあたりで豪雨が心配されるのか」ということを、しっかり報道してほしいのだ。どうやら明後日とかには東京都心でも大雨になりそうな予報で、ちょっと心配だ(今のところこのあたりはもう豪雨になりそうもないので、ひと安心だ)。
夕方に「Amazon Prime Video」をのぞいてみると「今日で<見放題>の終わる映画」として、吉田喜重監督の『水で書かれた物語』のタイトルが挙げられていた。吉田喜重監督の『秋津温泉』などは大好きな作品だし、『エロス+虐殺』も素晴らしい映画だ。この監督の作品ではまだ観たことのない作品が多くて、この『水で書かれた物語』も観たことのない作品だ。それで「では観ておこう」ということになった。
この前の『日本脱出』(1964)が松竹によって無断でカットされて公開され、吉田監督はそのことに抗議して松竹を退社しているわけで、1966年には妻の岡田茉莉子と共に「現代映画社」を設立することになるけれども、吉田監督はその前にこの『水で書かれた物語』(1965)を「中日映画社」の製作で撮り、日活の配給で公開している。
この作品、原作は石坂洋二郎で脚本は吉田喜重と石堂淑郎、そして詩人の高良留美子があたっている。そして何と言ってもこの作品で素晴らしいのは、音楽が一柳慧だということ、そして撮影が岩波映画を出たばかりの鈴木達夫なのである。
そういうところで、この映画は「鈴木達夫の<撮影>を堪能する映画」であり、「一柳慧の<音楽>を堪能する映画」ではないのか、というのがわたしの思いではある。
で、わたしはがんばってこの映画を観たのだけれども、1時間20分ぐらい観たところでどうしようもなく気分が悪くなり、先を観続けることが出来なくなってしまった。
吉田喜重監督の作品には、時にわたしには受け入れられない作品がある。例えば『嵐が丘』もダメな1本ではあるし、よく記憶していないが『告白的女優論』もダメだった(こちらは「ダメだった」というより「わからなかった」と言う方が正しいか)。
それで、今は詳しくは書かないけれどもわたしはこの『水で書かれた物語』という映画を受け入れられなくなり、途中で観るのをやめてしまったのだった。もっと時間があれば後日あらためて観ることも出来るだろうけれども、「見放題はこの日まで」というのではしょうがない。パソコンをとめてしまうのではあった。