ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ゴジラ-1.0』(2023) 山崎貴:脚本・VFX・監督

 この作品は以前(去年の暮れ)、映画館での「通常上映」と、さらに「IMAX上映」とを体験し、「やはり<大音量>は最高!」と思わされたものだったが、今回ウチで観ると、またしても「ボリューム」の問題にぶち当たってしまうのだった。
 実はやはりゴジラの暴れるときの音と、一般に人々が会話を交わすときのレンジの差は大きく、ちゃんと人の会話を聞き取れるボリュームにすると、いわゆる「騒音」となったときにそれこそ「大爆音」になってしまい、ウチのような環境では近所迷惑になってしまう。だから、ある程度セリフの聴き取りやすさは犠牲にしての鑑賞、ということになってしまった(ヘッドフォンを使えばよかったな)。

 さて、こうやって国産の実写ゴジラ映画30本のラストとしてこの作品をあらためて観て思うのは、やはりゴジラのルックス、その動きについてのこれまでとの「差異」で、これは「平成ゴジラ」の時代や「ミレニアム・ゴジラ」の時代にもこういう容貌のキリッとしたゴジラが登場したときもあったし、動作も機敏だった。ただ、その「動作が機敏」というのは敵との戦いのためであって、第一作、そして『シン・ゴジラ』とか「単独」で登場したときには、威厳を持ってゆっくりと動き回っていた印象が強い(ま、『シン・ゴジラ』で「第一形態」のときはモコモコと動き回っていた印象もあるけれども)。
 そこがこの『ゴジラ-1.0』では、さいしょに大戸島に登場したときには『ジュラシック・パーク』のティラノサウルスとかからの影響からだろう、非常に機敏に動き回って人を襲うのだった。ま、まだ核実験の影響で巨大化する前のことだから、人間のことも目にとまりやすかったわけだろうけれども、敢えて人間を「標的」にして攻撃するゴジラというのはまさに「驚き」で、そこだけでも「新しいゴジラ像」という印象は強かった。
 このあと巨大化して銀座の街を襲うときも、足で車や都電を蹴散らしながら、その尻尾で周囲のビルをなぎ払って破壊して行く姿は強烈だったし、何よりも印象的だったのは、「何か」に向かって威嚇するように姿勢を低くして「咆哮」するショットで、これは亜熱帯に棲むライオンやトラなどが「狩り」の対象に示す威嚇行為という感じで、これまでの「ゴジラ」にはまったく見られなかった行動だった、とは思う。

 これはまさに人間への「敵意」のあらわれのようで、意識して「破壊行為」を行っているという、ゴジラの意志を感じさせる。
 おそらくこれは、大戸島で日本軍兵士を襲ったのは、自分の棲み処の平和を戦争で乱す人間たちへの「怒り」ではあっただろうし、東京を襲ったのはまさに「核実験」を行って自分の生態まで狂わせた「人類総体」への、とてつもない「怒り」だったことだろう。それは自然に敵対するようになっている人類の文明への「嫌悪」ではあるだろうか。
 大戸島で最初に登場したときから、人間目線でゴジラを真下からとらえ、その巨大さを強調するショットも目立つようになり、意外とこういう視線というのは今までの「ゴジラ映画」にはなかったものだったと思う。

 この「無慈悲」なゴジラに対比されるのが、まず大戸島でゴジラに遭遇し、そのあともゴジラが東京に上陸する前に海でゴジラを目撃している敷島(神木隆之介)という存在がある。彼は当初ゼロ戦機での「特攻隊」兵士として出撃していたが、迫りくる「死」を前に、「機体の故障」ということにして大戸島に避難した人物で、その避難したあとに島はゴジラに襲われるが、このときもゼロ戦の「20ミリ砲」でゴジラを撃ってくれといわれてゼロ戦に乗り込むが、恐怖に囚われて撃つことができず、橘(青木崇高)という整備兵と敷島以外の日本兵は全員死亡、橘は敷島を責めるのだった。
 以後、敷島は「特攻」から逃げたこと、「ゴジラ」を撃てなかったこと、という二重の責任に自分を責め、PTSDで夜な夜な悪夢にうなされているのだった。
 敷島はその後銀座に上陸したゴジラにも遭遇し、そのとき敷島が一緒に暮らしていた典子(浜辺美波)もゴジラの発した放射熱線に吹っ飛ばされ、銀座の惨状をも目にして、ゴジラへの強烈な「敵意」を抱くのだった。
 映画は全体に、この敷島が「ゴジラを倒す」との使命感に燃え、ついに旧日本軍の戦闘機「震電」の残された試作機(橘が整備を行った)に乗り込んでゴジラへの攻撃に向かい、それまでの「特攻から逃げた」「ゴジラを撃てなかった」という PTSDから解放される、という物語ではある。

 映画の構成はやはり、第一作『ゴジラ』をなぞっているというか、中盤には「対ゴジラ対策」のミーティングの様子が描写され、ここでの「ゴジラを急激に海の深淵に沈める」「そのあと今度は急激にゴジラを浮上させる」というのが、じっさいの計画案として第一作『ゴジラ』での「オキシジェン・デストロイヤー」にあたるものとされるのかとも思うが、実はこの案はイマイチ不充分で、けっきょく敷島による戦闘機による「捨て身」の攻撃がまさに「必要」だったようだ。

 「ゴジラ」の災厄と、敷島という個人の抱えるドラマとをうまく組み合わせた映画として、たしかにこれまでになかった作品として「新しい感動」を産む映画、ではあっただろうと思う。
 敷島にとっては、ゴジラを倒すことは自分の内なる「太平洋戦争」を終わらせることであり、帰還後に実は生存していた典子に会ったとき、典子は敷島に「戦争は終わりましたか?」と言葉をかけるのだった。

 しかしこの映画を観ていると、「ちっとも戦争は終わってないじゃないか」という印象をも受けることになる。さいごの「対ゴジラ」の「わだつみ作戦」なるもの、「上からの指令」によるものではなく、民間の手で立案されたものということだけれども、その組織形態はあまりに「旧日本軍」をなぞりすぎているのではないか。
 けっきょく「わだつみ作戦」のリーダーも、戦時中の駆逐艦の艦長が担当しているわけで、「どこまで<戦争犯罪>を排除したのか」ということは不明なままである。これは「ぜったいにGHQは登場させない」という製作姿勢での結果ではあろうけれども、いくばくかの疑問は残ることになったと思う。
 また、(誰とは書かないけれども)一部出演者のステレオタイプな演技には、見ていてかなりの違和感を抱くのだった。

 さて、このまま「続編」が撮られるとしたらば、「ゴジラ細胞」が典子の中で増殖し、過去の『ゴジラvsビオランテ』のビオランテのような、新しいモンスターが誕生するのだろうか???