前作『ゴジラvsビオランテ』につづいて、脚本と監督は大森一樹の続投になった。実は興行収入はその前の『ゴジラ(1984)』に届かず、目標にも達しなかったのだけれども、プロデューサーの田中友幸はその内容を高く評価したらしい。
大森一樹は『ゴジラvsビオランテ』ではかなり入れ込んで、「怪獣映画を超える傑作を」という意気込みだったらしいが、興行収入も不調だったことから、今回は開き直って「何でもやった」と述べていたという(ほんとうは彼は、次は「モスラ」で撮りたかったらしいが)。
じっさい、『ゴジラvsビオランテ』の興行成績が伸び悩んだのは、そのストーリーが子供には難し過ぎただろうと分析され、「やはりゴジラ映画はエンターテインメントよ」と回帰することになった。
さらに、『ゴジラvsビオランテ』が同時期に公開された『バック・トゥ・ザ・フューチャーpart2』にモロにぶっつかって客を取られたことからか、この『ゴジラvsキングギドラ』では思い切ってタイム・トラベルを取り入れるという「反則技」を」やってるし、その中で「ゴジラ誕生」の秘密、「キングギドラ」の誕生の秘密、ということの説明までやってしまっている。
この展開、ある面で今までの「困ったときは宇宙人」というお決まりの展開の、「宇宙人」を「(2200年代からタイム・トラベルしてきた)未来人」としただけみたいでもあるが、この作品に通底する「地球の未来」への視点の延長として、「宇宙人」の荒唐無稽さを回避しているように思える(「未来人」だって荒唐無稽だろうが)。
それでこの「タイム・トラベル」というストーリー展開、「それはおかしいんぢゃないの?」というところを多分に含んでいるし、「タイム・トラベル」のパラドックス(「タイム・トラベル」の理由であった過去のプロブレムを解決してしまえば、以降の歴史は書き換えられ、「タイム・トラベル」の理由もきえてしまうではないか)もあると思うのだけれども、大森監督は「エンターテインメント性」を優先させたのだということ。わたしも、「整合性の取れていない映画」、「飛躍のある映画」は好きである。じっさいこの作品、当時の『ターミネーター』みたいな(そっくりな)アンドロイドは登場するし、「スピルバーグ少佐」なる人物もちょろっと登場する。
あと、音楽は『メカゴジラの逆襲』以来久々に伊福部昭が担当した。これは『ゴジラvsビオランテ』において、他の音楽家が伊福部昭の「ゴジラ楽曲」を編曲して使っているのを伊福部昭自身が聴いて不満だったし、彼の娘からの強い希望もあったのだという。そういうところではこの作品、伊福部昭の「ゴジラ音楽」全開というか、「これでもか!」というぐらいに堪能することができるのだ。
さて現代人の前に姿をあらわした未来人らは、「ゴジラ」誕生の原形態である恐竜の生き残り「ゴジラザウルス」は23世紀にも人類の脅威なので、ビキニ環礁のラゴス島に棲息していた「ゴジラザウルス」をベーリング海へ転送し、「ゴジラ誕生」を防ぎたいのだと持ちかける。
実は未来人らはゴジラの代わりに自分たちがコントロールできる「キングギドラ」を誕生させ、23世紀に「大国」になっていた日本の勢力を削ごうという計画なのだった。
むむむ、めんどくせえ、そういうことをやりたいのならわざわざいちど「現代」に現れずとも、さっさと「核実験」の前のビキニ環礁へ行って、ゴジラの素のゴジラザウルスを転送してキングギドラの「種」を置いてくればいいようなものだ。というか、その時点でゴジラザウルスを抹殺しちまえば「万事解決」だとは思うのだが。
しかしベーリング海へ移されたゴジラザウルスは、ソ連の原潜の事故で放射能をたっぷり浴び、みごと「ゴジラ」へと成長してしまい、北海道に上陸するんよね。「なんてこった」と未来人らは同じく誕生したキングギドラを「ゴジラ征伐」に北海道に送り込み、ゴジラ圧倒的に不利。しかし未来人のやり方に反撥するひとりの未来人が造反し、キングギドラのコントロール装置を破壊するのである。キングギドラはフルボッコにされ、第一ラウンド、ゴジラの勝利。
そしてゴジラは「やっぱり東京だよね」と東京へ向かうのだった。「このままでは東京は壊滅してしまう」と考えたヤツが造反した未来人と談合、ボコボコにされたキングギドラをいちど未来に送ってサイボーグ化というか「メカ・キングギドラ」に改造して、また現代に送り返すというアイディアを実行するのだ。なんかいろいろ大変だ。
さて、「帰って来たメカ・キングギドラ」、めっちゃカッコいいし強い。第二ラウンドは大熱戦となるが、いつものお約束で2頭はもつれ合ったまま海へと沈むのであった。たいていの「未来人」は乗っていたUFОごとゴジラの熱線を浴びて消滅。造反した未来人は、皆に別れを告げて未来へと帰って行くのだった。チャンチャン。
さてわたしにとっては、大森監督のテンポのいい演出を楽しむ映画ではあったけれども、終わってみれば「あれは何だったのだろう?」と、首をかしげてしまうような映画ではあった。