「怪獣映画」には、『大怪獣のあとしまつ』のようにその怪獣が死んだあと、「その死体をどうするか?」という問題と共に、「そもそもそんな怪獣どもの起源は何か?」という問題があると思う。1933年の初代キングコング映画では、「地図にも載っていない島(これが『キングコング:髑髏島の巨神』での「髑髏島」であろう)」に人知れず古代から棲息し続けていたようなことになっていて、1954年の初代ゴジラは、海底にジュラ紀から潜んでいたゴジラが、たび重なる原爆実験で覚醒してしまったことになっていた。
しかしこれが先日観た『キングコング:髑髏島の巨神』では「地球空洞説」を持ち出し、その髑髏島に地下世界との通路があり、地下に棲息する大怪獣が地上に現れたのだとの説を取っていた(と思う)。
さらにこの『パシフィック・リム』ではSF度をグレードアップし、「太平洋の海底に<異次元世界>と繋がる割れ目があり、そこから続々と大怪獣が地上に攻め入って来るのだ」となる。もうこうなってしまうと「SF世界」なのだから、文句のつけようはない。
そして『パシフィック・リム』では、「イェーガー」と呼ばれる対戦型巨大ロボットに2名(3名ということもある)の操縦士(パイロット)が乗り込み、怪獣と戦うのである。そこでは乗り込む複数のパイロットの「相性」ということが非常に重要ではあるらしい。
‥‥って、こういう設定ってアレじゃないのか、かつての『新世紀エヴァンゲリオン』に酷似しているように思う。怪獣はつまりは「エヴァンゲリオン」で言う「使徒」であろうし、「イェーガー」はまさに「エヴァンゲリオン」。パイロットは少年少女というわけではないが、ここでは「イェーガー」との交感力よりも、いっしょに乗り込むパイロットとの交感力が問題になる。だから自然「親子」や「兄弟」が適しているということにもなるようだ。
ここで怪獣との戦いで兄を亡くしたローリー・ベケットというパイロットがいて基地に呼び出され、そこには本来は現場の研究者である森マコ(菊地凛子)という女性がいるのだが、森マコは同時にパイロットとしての能力も高く、ローリーと組むことになる。森は黒髪ぱっつん前髪のボブヘアーで、アニメの登場人物みたいだ。わたしにとって、この映画の魅力の70パーセントぐらいは、この菊地凛子の存在によるものだ。
もう一人、現場の司令官ペントコストという人物があり、彼は森マコの過去の(怪獣に襲われたときの)トラウマを熟知していて、彼は「エヴァンゲリオン」ならば碇ゲンドウ的な位置にあり、そういう意味では森マコは綾波レイではなく、むしろ碇シンジなのだろうか。
さらに『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』との深い関連もあるのだろうが、わたしは「ヤマト」も「ガンダム」もまったく見たことがないのでそのことに関しては何も言えない。『新世紀エヴァンゲリオン』を観ていたことは、この作品理解の大きな力になってくれたが。
特に、その森マコの幼少期の体験を描いたシークエンスは、この作品により「ヒューマニティ」を産み出していたと思う(幼少期の森マコを演じていたのは芦田愛菜だった。まあほとんど泣いているだけだったけれども、存在感があった)。そのつながりから、ペントコストが死を覚悟してイェーガーに乗り込み、<異次元>との経路をふさぐために飛び込んで行くとき、森マコがペントコストに投げかける言葉が泣けるのだった。
この映画で面食らわせられるのは、やはりその圧倒的なCG映像でもあるだろうけれども、怪獣とイェーガーとの戦闘シーンなど「いったいどういう原理で作画しているのだろう?」と、それこそ「眼を丸くして」画面を観るのだが、あとでちょっと読んだのではすべてをそういうⅭG映像でやっているのではなく、実際にセットでそういうモノを組み立てたりもしたらしい。ただ、登場する大怪獣連中はやはりこの地球上の生物には見えず(そもそも全身像がほとんど映らない)、わたしの好きな「怪獣映画」からはちょびっと距離があった。
それでも、雨の降りしきる香港の街のシーンなどはまさに「サイバーパンク」として、『ブレードランナー』とかの世界観を思い起こされることになる(ロン・パールマンの登場も含めて)。
そう、そういう意味ではこの映画、ちゃんと「大怪獣のあとしまつ」をどうやっているか、ということまで描かれていたのが面白かった。
続篇の『パシフィック・リム: アップライジング』もあるけれど、監督はギレルモ・デル・トロではないからあまり期待すべきでないかな? でも見てみたい。