ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2022-10-07(Fri)

 今日10月7日という日は、「ミステリーの日」、「ミステリー記念日」ということらしい。
 これは今から173年前、1849年のこの日に、あのエドガー・アラン・ポーが亡くなられたその命日にあたるがゆえなのらしいが、それはエドガー・アラン・ポーという人物がまさに「ミステリー」というジャンルの開祖的存在であったことと同時に、その彼の「死」の状況こそが彼の作品以上に「ミステリアス」であり、彼の死の真相はもう今では解明しようもないのである。まさにこの日が「ミステリーの日」である由縁、ではあるのだろう。
 この年40歳であったポーは2年前に「幼な妻」のヴァージニアを結核で失い、この10月にはかつて青年時代の恋人であったエルマ・ロイスターとの婚約も成立し(この経緯もアレコレあるようだが)、自分の作品集出版の準備のためにニューヨークへ旅立つのだけれども、なぜか途中寄港地のボルティモアに数日とどまり、10月3日にその地の酒場で泥酔状態で倒れているところを発見され、そのまま治療の甲斐なく7日早朝に亡くなるのである。
 今では当時の選挙制度ボルティモアの選挙の「不正投票」に巻き込まれ、さんざん酒を飲まされて判断能力を失わされて投票させられたという説が有力らしいけれども、それでもその旅立つ前のポーに会った婚約者は、その時点でポーの様子が「病的」というか異様なので、後で考えて彼の旅行をやめさせようと彼に会いに行くのだけれども、入れ違いにポーは旅立ってしまっていた、などという話もある。やはり彼の死は「ミステリー」なのだ。

       

 そんな「ミステリーの日」というかエドガー・アラン・ポーの命日にちなんで、何かポーの原作になる映画でも観ようかと思ったのだったけれども、思ったよりも、今手軽に観ることが出来るポー原作の映画というのも少ないみたいだった。

 やはり「ポー原作の映画」の代表作はといえば、ロジェ・ヴァディムルイ・マル、そしてフェデリコ・フェリーニという3人の監督によるオムニバス映画『世にも怪奇な物語』(1967)ということになるだろうが、今はサブスクでも観ることは出来ないようだった。
 あと、まさにそのエドガー・アラン・ポーの死の謎に迫った映画、『推理作家ポー 最期の5日間』(2012)っつうのがあって、ちょっと観たかった(ポーをジョン・キューザックが演じていて、「それはいいキャスティングだ」と思ったのだった)。
 けっきょく、何も観ないままにこの日は過ぎてしまったが。

 さて、昨日は「寒い」と言ってもいい一日だったけれども、今日は「それ以上に寒くなるよ!」という早朝の天気予報であった。
 まあわたしには昨日は電車の中や建物の中ではそこまで寒くなかったし、「ちょっと屋外を歩くときに辛抱すればいいだけやん!」と、昨日と同じく長袖Tシャツの上に長袖シャツを着ただけで家を出た。しかし明らかに昨日よりは寒く、昨日のようにシャツの袖をまくり上げていたのはやめて、ちゃんと袖口のボタンをはめるのだった。

 電車に乗ってみるとさすがに皆さん「厚着」になられていて、もうニット地のカーディガンとか着ていらっしゃる方もいる。しかし、途中乗り換えたメトロ車内でわたしの向かいにすわられていた「おにいさん」は、黒の半袖Tシャツ一枚で、しかもその袖口から下にはみ出た「二の腕」が太くって強烈に「マッチョ」で、それとなく眺めていたわたしにも、その「熱気」は伝わって来たのだった(ちょびっと怖かった)。

 今日も仕事を終える時間には「雨」で、わたしもこの日は予報をみて「折りたたみ」ではない「でっかい傘」を持って出ていたのだったけれども、しっかり役立ってくれた。

 帰宅してテレビをつけ、『舞いあがれ!』をみる。昨日の回なんか、始まってすぐに哀川翔が登場したりして喜んだものだったが、この日の放送はヒロインの少女と「おかあさん」の永作博美、そして「五島列島」に住む「祖母」の高畑淳子との、三代にわたる女性らの「ドラマ」をしっかりとみせてもらい、さいごには少女の「涙」につい、わたしももらい泣きしてしまうのだった。

 帰宅したとき、ニェネントくんはわたしのベッドの「掛け布団」の上で丸くなっていた。この寒さだから、わたしもしっかりと「掛け布団」を羽織って寝るのだけれども、昨夜も夜中にニェネントがベッドの上に跳び上がって来て、しばらくわたしのそばで、わたしと並んで横になっていたと思う。ニェネントも、「寒くなって来たね!」という気もちだったのだろう。

 今日もわたしがリヴィングでまったりしているとき、キッチンに置いてある「折りたたみ椅子」の上で丸くなって、わたしのことをずっとウォッチングしているのがニェネントくん、なのである。

     

 ニェネントくんはおそらくは、わたしのそばに付き添っていることこそが「幸せ」なのではないかと思う(そういう意味では、彼女はわたしの「守護神」なのではないかと思う)。これでわたしがニェネントくんをかまってあげようと近寄ると、ニェネントくんは「にゃお!」とか啼いて、和室の押入れの中とかに逃げて行ってしまうのだから。