ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『カリスマ』(1999) 黒沢清:脚本・監督

 1997年の『CURE』で一気にブレイクした黒沢清監督は、そこから堰を切ったように映画製作にのめり込み、1999年には『ニンゲン合格』『大いなる幻影』そしてこの『カリスマ』の3本の作品が公開され(『カリスマ』は海外で先に公開され、日本での公開は2000年になったらしい)、2000年の『回路』へとつづく。
 そしてこの時期の黒沢清作品は、どこか、「終末論」というような色彩の強い作品が並ぶことでも特徴的だろうと思う。

 この『カリスマ』でも役所広司が『CURE』と同じく「刑事」を演じていて、物語的に『CURE』とはまるっきし異なっているとはいえ、ある面で『CURE』の続篇ではないか、という空気もある(この「空気」は、次の『回路』にまたラストに役所広司が登場し、「<生き残り>を模索する船長」を演じることで、この時代の「終末論的連作」の環が閉じられた、とも言える気がするが)。

 刑事・藪池(役所広司)は、ある青年が女性の人質をとって立てこもる事件の現場で、犯人のスキをみて彼に銃を突きつけるがなぜか発砲せず、ために犯人と人質の双方を死なせてしまう。そのとき藪池は犯人から、メモ用紙に書いた『世界の秩序を回復せよ』というメッセージを受け取っていた。
 藪池は「犯人と人質」の両者の命を救おうとしたから発砲しなかったと言うが、「最悪の結果」を生んでしまったわけだ。しばらく休職する藪池は、とある森へと足を踏み入れ、その森の中でアルミパイプ製のやぐらで守られた一本の木に出会う。
 木を守っているのは、桐山という青年(池内博之)で、彼は森の中で院長が死んだために廃墟となっている病院跡地に、ほぼ寝たきりの院長の未亡人と住んでいるようだ。
 桐山はその木を「カリスマ」と名付けているのだが、彼の話ではそのカリスマの木は森全体を枯らしてしまう「毒」を放出していて、「カリスマ」の木と「森」との共存は不可能だと語る。
 一方、「カリスマ」の木の周辺には、「カリスマ」を伐採しようとする一団(リーダーは大杉漣)が桐山と衝突を繰り返しているし、森をさまよう藪池は森の中に研究室を持ち「カリスマ」に強い興味を持つ大学教授の神保(風吹ジュン)とも出会う。神保は「森を出たい」という意志を持つ妹(洞口依子)ともいっしょに暮しているようだ。
 錯綜した人物関係の中で、ついには「カリスマ」は伐採されてしまうのだが、藪池は森の奥で「もっと大きな」枯れ木のような巨大な木を見つけ、これこそ「カリスマ」だと確信する。さらに森の中の人物関係は錯綜して行くのだ。

 冒頭、映画が始まって数分の「導入部」の映像があまりに「強烈」で、そのカメラ位置、カメラの移動、カッティング編集など、とにかくは見惚れてしまい、「これはとてつもない映画ではないか!」とは思うのだった。
 しかしながらその後の展開は「晦渋」というか、一種そのときの世界構造のメタファーなのかとも思うのだが、とにかくは一筋縄では行かないが、そこの背後には(特に終盤)、藪池が冒頭の「事件」で受け取った『世界の秩序を回復せよ』とのメッセージが大きな影を投げかけているわけだろう。

 「ネタバレ」してはいけないよね、とは思いながらもこの「結末」を書いてしまうと、神保教授の持っていた「酸素ボンベ」で枯れ木「カリスマ」を爆破し、森の中の人物関係の錯綜にも大きな展開があり、わたしにはそれがどういうことを意味するのかわからないながらも、藪池は森を出ようとするのだが、そのとき森の高台から眺められる近郊の都市の夜景は、まさに何ヶ所からも炎上していて、夜空には(おそらくは)自衛隊機が飛び交っている。
 藪池は「勤め先」の警察上司に、「これから復帰します」とケータイ連絡するのだが、上司は藪池に「おまえ、いったい何をやらかしたんだ?」と言うのである。
 このラストはまさに黒沢清監督の次作『回路』への予兆でもあるだろうし、何といっても、これは「9.11」よりも前に撮られた映画ではあるのだ。

 わたしはこの作品のことを何もかも理解したなどとはとても言えないのだけれども、強烈な作品ではあったと思う。また、「商業的な妥協」など一切排したようなストーリーと演出に、「映画監督として、一度でもこれだけ<自由に>作品を撮れたなんて、幸せなことだろうな」とは思うのだ。
 この1999年、まだ日本の映画界は「気骨」があったのだろうか(この作品の配給は「日活」と「東京テアトル」で、製作総指揮は故・中村雅也氏だった)。