ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『木になった亜沙』今村夏子:著

 「木になった亜沙」、「的になった七未」、そして「ある夜の思い出」の三篇を収録。ヤバい。


 「木になった亜沙」

 仏教か何かの、宗教的な「説話」のように思えた作品。ひとつの「執着」の物語なのだろうか。
 亜紗は、自分の手から誰かに「食べさせたい」と思っているのだが、死ぬほど徹底して、誰も(水槽の金魚まで)亜紗の手ずからでモノを食べようとしないのだ。
 母娘の二人暮らしだった亜紗だが、六年生のときに母は病の床につく。亜紗は看病で母に食事を与えようとするが、母は厳として亜紗の手から食事を取ろうとしまいままに亡くなる。
 それまで「いじめられっ子」だった亜紗は、中学になって「いじめる」側の不良になり、いろんな家に泊めてもらう生活をする。そんな亜紗を叔父は「更生施設」に連れて行き、そこで生活するようになる。亜紗は更生施設の主治医に恋してしまい、主治医の言うことをよく聞いて優等生になる。しかし、妻帯者である主治医は彼女が差し出すチョコレートを受け取らない。
 「更生施設」退所間際、施設の皆とスノボに出かけた亜紗は、コースを外れて木に激突して死んでしまうのだ。死ぬ前に亜紗は、自分のそばに寄って来たタヌキが木の実を熱心に食べるのを見て、「生まれ変わったら<木>になりたい」と思うのだった。

 そしてその<希望>の通り、亜紗は<杉の木>へ転生するのだ。その杉の木は成長して切り倒され、「割り箸」になるのだ。そして、ある若者がコンビニでカップラーメンを買ったとき、そのときに付けられた割り箸が亜紗だった。
 ようやく亜紗は、自分の手(?)から、人にモノを食べてもらうことが出来るのだった。
 まあその若者の家でもいろいろあるのだが、どうも一種「ゴミ屋敷」状態だったのではないかという、その若者の家にあるものは、亜紗と同じように、<転生>して来たものにあふれていたようだ。その若者の家にも「強制代執行」が入るというとき、転生して「読書灯」になっていたコが、みんなの「がんばれ!」という声に励まされて破裂し、そのそばで「文庫本」になっていたコのページに火をつけ、すべては(亜紗も若者も皆)炎に包まれてしまうのだった。

 けっきょくどこか、『こちらあみ子』や『星の子』、そして『あひる』にもつながるようなモノがあり、それは「社会」というものの中で、何と言うのか「正統な生き方」ではない、排除されたり排除されるギリギリのところに生きる人たちのことではないかという気がする。というか、ここにあるのは「なぜわたしは受け入れられないのか」という、「怨念」のようなモノがあるのではないか。それがやはりわたしには、「不穏」な気分が捲き起こされるモノである気がする。


 「的になった七未」

 先の「木になった亜沙」のヴァリエーションのような作品で、ここではヒロインの七未は「当たらない」、「的にならない」存在。
 そんなこと大したことではないではないか、というところだが、例えばドッジボールのゲームでぜったいにヒロインにはボールは当たらないし、そうして「当たりたい」、「的になりたい」というのが、七未の生きる「ライトモティーフ」になり、人生を狂わせる。
 けっきょく、自分が自分の「的」になるということで、自分の顔を殴りつづけるようになって施設に入れられ、先の「木になった亜沙」と同じく、そこの主治医と恋に落ちる。
 今回はその主治医(やはり妻帯者だった)との仲は継続されるというか、その主治医の子をもうけて、主治医の準備してくれたアパートの一室で母子で暮らすことになる。しかしその主治医は「児童買春」で逮捕され、七未は主治医からのバックアップもなくなって、よりどころがなくなる。カウンセリングとの相談で息子を養子に出すことにするが、そのあと七未はホームレス同然の生活をすることになる。

 ちょっとこのあとのストーリー展開を書くのはむずかしいのだけれども、ラストには七未の「また息子に会いたい」という気もちと、「的になりたい」という気もちが合体され、七未は祭りの夜に死ぬ。
 死んだ七未は昇天し、そこでは皆が「やっと終わったね」「よくがんばったね」と、七未を祝福してくれるのだった。

 ‥‥なんというか、ものすごく「ヤバい」作品を読んでしまった気がする。
 まさに、過去の表現技法の「アレゴリー」という世界にダイレクトに入り込んでしまった作品のように思えるし、そんな中でやはり、『こちらあみ子』などの作品からの「延長」と読まされている気もする。ここではヒロインの七未は追いやられて追いやられて、社会の最底辺の存在のようになるし、ラストはそれが「救い」といえば「救い」なのだろうけれども、これはまるで「フランダースの犬」である。
 今村夏子の作品の奥の奥の、その究極のところには、こういう世界があるのだろうかと、息が詰まる思いがした。


 「ある夜の思い出」

 先の二つの作品はつらかったけれども、この作品は「ファンタジー」と読めて救われる(というか、これまでがつらかったから、救われる方向で読んだのかもしれない)。

 「学校を卒業してからの十五年間、わたしは無職だった。」という書き出し。「わたし」は、「死ぬまで畳の上で寝そべっていたいと思っていた」存在である。父親からは「働かないなら出ていけ」と、毎日言われていたという。そして、「朝から晩まで寝そべる生活を送っていると、二本足で歩くことがだんだん億劫になってくる」らしく、いつも腹ばいで過ごすことになる。食べ物は飼っていたネコのエサを食べるようになり、トイレもネコのトイレを使うようになってしまう。
 ある日、父親と大ゲンカをしたヒロインは家を飛び出し、町を徘徊する。そのうち、自分のように腹ばいで四つ足歩行する男と出会い、つまりは彼の家に招かれる。
 家には「お母さん」と「男の子」がいて、その男は「ジャック」と呼ばれているようだ。「のぼる君」という男の子は、前からジャックに「お嫁さんを見つけて来いよ」と言っていたらしい。
 ジャックは、お母さんの出してくれた「牛乳パック」のストローを包んだ袋を「わたし」の指に巻いてくれて、「指輪のつもり」と言う。「わたし」はジャックからプロポーズされたのだと思い、「いちど家に帰ってお父さんに報告して、また戻って来る」と言って、「行くなよ」というジャックを「ぜったい、戻って来るから」と振り切って、ジャックの家を出る。
 家に帰る途中、「わたし」はゴミ収集車に轢かれて入院してしまう。入院して、医師にも父親にもジャックとのことを話すが、信用してもらえない。
 退院したあと、心あたりを歩き回り、それらしい家のインターフォンを押して「そちらにジャックさんはおられますか?」と尋ねたけれども、ジャックの家は見つからない。

 それから十年が経ったというが、そのあいだに「わたし」は結婚して子供も生まれ、家計を支えるために働いているという。今の生活に不満のかけらもない「わたし」だけれども、それでも時々、「ジャック」のことを、あの夜のことを思い出すのだった。

 こりゃあ当然、「ジャック」はネコなわけで、その夜、「わたし」は「ネコ」になってしまっていたのだろう。
 「学校を出て十五年働らかないでゴロゴロしていた」とか、『あひる』の語り手もこういう女性だったんじゃないかと思うし、どこかで「あみ子」の面影もあるように思ってしまう。

 もしかしたら、今村夏子は、「わたしの作品は、み~んな<ファンタジー>として読んでちょうだいね」と、言っているのかもしれない。また、今村夏子の作品のヒロインたちは、どこかでみ~んなつながっているようにも思えてしまう。