ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『星の子』今村夏子:著

 刊行は2017年。先日、大森立嗣監督による2020年の映画を観たばかりだけれども、映画版はこの原作の時系列をちょっといじっただけで、基本的にこの原作小説と同じだ(ただ、映画の方ではさいごの「合同研修合宿」のとき、両親はちひろに、家出している姉のまーちゃんから電話があり、「子どもが産まれた」との報告だったと伝えるという、原作にない場面があった)。

 この原作を読んでも、主人公のちひろが両親のことをどう思っているのかしかとはわからないし、基本、両親がはまっている「宗教」のことをどう思っているのかも語られない。
 でもこの原作では、「両親のもとを出て、ウチから高校に通えばいい」という親戚の雄三おじさんの申し出はしっかりとシャットアウトしている。
 そこにはおそらく、そもそも両親がその新興宗教にはまったきっかけは、病弱だった乳児期の自分のせいだという気もちもあるのだろう。「その水のおかげで健康で風邪もひかない」という、教団のメイン商品みたいな「金星のめぐみ」のペットボトルを学校に持って行き、机の上にいつも置いていたりする。

 しかし、学校で卒業文集編集で帰りが遅くなり、けっこう「あこがれ」だった数学の南先生に級友らと車で家まで送ってもらったとき、家の前で「儀式」を行う両親を先生らに見られ「不審者」とされたとき大ショックで、車から降ろしてもらったあと駅の方まで駆けて行ってから帰宅する。そのとき興奮するちひろの頭に両親は「金星のめぐみ」を注ぐのだが、そのままそうやって頭を濡らしたまま寝てしまったちひろは、風邪をひいてしまう(このとき、ちひろもさすがに「金星のめぐみ」への信頼も薄れただろう~最初っからそんな効能など信じていなかったかもしれないが~)。
 おそらく、ちひろの中では、自分の両親のことを南先生に「妙な偏見を持たずに」あれがわたしの両親、と認識してほしかったのではないかと思うのだが、その南先生はまったく逆に、しばらく後になって教室で皆の前で、ちひろちひろの宗教を誹謗する。

 ふだんのちひろ家での、ちひろと両親との様子などはまるで書かれていないのだが、ちひろは家出した姉のまーちゃんのように「両親と離別」しようなどとは思っていないようには思えるが(どうかな?)、ただその「宗教」のヤバさはけっこう危うく思っている。そんな教団の中で、同じ教団家族の息子(自閉症のフリをしている)と自分の将来の結婚まで決められていると、その息子からちょくせつ聞かされたりしているし、さいごの「研修合宿」でも教団のヤバい話はいろいろと耳にする。過去にリンチが行われたとか、催眠術で高価な水晶玉だかを買わされたとかの話。

 そしてこの小説のラストでは、夜の屋外で家族三人で「流れ星」を見ようとして眠くなってしまうちひろは、「このまま眠ってしまえばいいのだろうか。そうしたら、薬を飲まされ、ICチップを埋め込まれ、催眠術をかけられて、明日の朝にわたしは変わっているだろうか‥‥」と思うのだ。
 つまりこの時点で、ちひろは「わたしはわたしである」との「自立心」、教団との距離を保っているつもりでいるだろう。しかしこのラストのちひろの「疑念」はそのまま、そのとき自分の両側にいる両親に向けられたものではないだろうか。
 それは南先生の宗教への誹謗、そして合宿で聞いた教団の「黒歴史」にも裏打ちされ、しばらく前に雄三おじさんの申し出を拒否したときと比べ、この時点ではちひろの考えにも変化があるのだろう。そしてもうひとつ、あこがれていたのであろう南先生への「幻滅」も、きっとあったことだろう。ちひろは変化していく。

 だいたいこのラストの、「流れ星を見に行こう!」というちひろの両親の気もちもわからなくって、「時間なんか気にしなくっていいんだ!」と言うし、寒い夜中に片寄せ合って「流れ星」を見つめようとするというのが、何だか「一家心中」でもしようとするような雰囲気に思える。不穏である。

 ちひろの救いは、ちひろ家の宗教に関係なくちひろの親友でいてくれる、なべちゃんや新村くんらの存在で、まあちひろの中学生活も残り長くはないけれども、ちひろもそのあいだに「大きな決断」をするのではないか、そんな気がする。

 終始ちひろの視点から書かれたこの小説、「そのときちひろはこう考えた」などという説明的な文章は皆無なのだけれども、この小説の中で、書いて来たように、ちひろが見たり聞いたりした「体験」から、ちひろは少しずつ変化しているだろう。そのちひろの「変化」を読み取ること、その「変化」の契機は何だったのか、そういうことを読み取る小説なのか、とは思った。