ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2022-04-14(Thu)

 夜中に寝ていて、ニェネントが「ゲッ!ゲッ!」と吐いている声が聞こえた。「あららら、吐いてるな~」とか思いながらも、そのまま寝つづけてしまった(こういうことは、たまにある)。
 それでそのあとの夜中にトイレに行きたくて目覚め、トイレに行ってベッドに戻るとき、「グニャ!」とばかりに、ニェネントくんの吐いたゲロを踏んずけてしまった。それでも眠いから、かたちばかりに足をタオルで拭いてからまた寝てしまった。

 朝起きて、ニェネントくんが何ヶ所かに分けてぶちまけたゲロを掃除する。「毛玉のゲロ」ではなく、夕食をそっくりそのままゲロっていた。「こういうことって、最近はあんまりないことだなあ」とも思うのだった。
 それでまずはニェネントくんの朝食(カリカリ)を出してあげるのだけれども、そのときはニェネントも朝食にかぶりついたが、しばらくしたら食べた朝食をぜんぶ吐いてしまった。「ぜんぶ」というか、出してあげた朝食は三分の一ほど食べただけで、食べた分はぜんぶ嘔吐し、残りはそのまま器に残されていた。
 今までにこういう事態になった記憶はなかったし、そのあともニェネントは残った朝食を食べようとはしなかった(そりゃあ、「ゲロった」直後だから食べられないのはノーマルなのだろうとも思うが)。

 心配である。何か、床に落ちていた変なモノを食べてしまったのだろうか? 心配である。
 こういう日にニェネントひとりを部屋に残して仕事に出るのは、ほんとうにためらわれる。ずっとニェネントの様態をそばにいて診てあげるのが親のつとめだと思うのだが。
 しかしそれで急に仕事を休むというわけにもいかず、心配する気もちを大きく残しながらも、仕事に出るのだ。

 時系列を無視して先のことを書いておくけれども、そういうわけで仕事を終えて急いで帰宅したのだけれども、ウチの前に着くと、ウチの窓から見えるキャットタワーの上にニェネントくんが上がっているのが見えた。
 わたしは最悪、具合が悪いままで、部屋の中で横になって動けないでいるニェネントを想像してもいたので、キャットタワーの上に跳び乗っているニェネントの姿をみて、しんそこ(心底)ホッとしたのだった。

     f:id:crosstalk:20220414125153j:plain:w500

 外から窓ガラスをトン、トンと叩くと、ニェネントは(元気そうに)わたしの方にからだを伸ばしてくる。玄関口にまわってドアを開けると、ニェネントくんは先回りしてわたしを出迎えてくれた。
 朝に朝食を食べ残していたお皿をみると、残っていたカリカリもきれいに食べてしまっていた。どうやら心配するような事態ではない。よかったよかった。

 今日は「雨」になるという予報通りにぼちぼちと雨が降り、気温もまた2月ごろの寒さに戻ってしまった。昨日とはうって変わって厚着して、またパーカー・ジャケットを着て家を出たのだった。
 朝に家を出たときにはまだ雨は降っていなかったが、駅の近くまで来て東の空を振り返ると、曇っていてもそれなりに空は明るくみえるようになっていたけれども、その蒼い空を覆う黒い雲は不気味だった。

     f:id:crosstalk:20220414044635j:plain:w500

 勤め先あたりのスズメたちだけれども、今朝は巣づくりのいちばん進行しているカップルの信号機のボックスの巣に、そのスズメの一方が枯れ草をクチバシにくわえて運ぶところが見られ、新築の巣の建設も順調に進んでいるようだったが、写真は撮れなかった。それでもそのあと、そのカップルが「いちゃいちゃ」しているツーショットは撮影したが。

     f:id:crosstalk:20220414060531j:plain:w500

 とにかくはニェネントくんもとりあえずは大事に至らず、朝の不安感も吹き飛ぶ「ハッピーエンド」の一日にはなった。わたしとしては「安堵」の一日になったが、ニェネントくんの健康にはもっと留意して、こんな心配をすることのない、ハッピーな毎日をおくりたいものである。

 ウクライナ情勢はいまだに「悲劇的」な状態が継続しているようで、いつも心の隅に、そんな世界情勢のことがのしかかっていはいる。
 ただ、わたしにしても、その価値判断はアメリカやNATO諸国の価値判断にしたがったところがあるわけで、そこに大きなバイアスがかかっている。
 例えばアメリカやNATO諸国はウクライナに軍事支援を行うわけだけれども、ウクライナには支援した武器でロシアと闘えとするばかりで、それは今の「戦争状態」をロシアが疲弊するまで継続せよとするばかりに思えるし、そのような状態をアメリカやNATO諸国は「善し」としているようでもあり、日本国内でもそういう声が大きい。そういう戦闘の継続状態をいつまでもつづけていいのか?という疑問はいつもあるのだが、逆にそういう路線に反対する声は「ウクライナは早く降伏した方がいいのでは?」というようなことにもなる。
 こういう声をあげると、たちまち国内ではバッシングを受けるし、じっさいわたしにしても「それはちがうだろう」とは考える。
 しかし、現在の情勢は、ウクライナの人々ばかりがいつまでも「死の恐怖」と隣り合わせに生活しているようで、言ってみれば「世界の危機」を彼ら、彼女らたちだけで背負い込んでいるように見え、心が痛む。報道では近々ロシアはもっと大規模なウクライナへの攻撃を開始するおそれもあるという。おそろしいことだ。