ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『オーデュボン伝 野鳥を描きつづけた生涯』コンスタンス・ルーアク:著 大西直樹:訳

 この、1993年に国内で刊行された翻訳書、いちばん素晴らしいのはカヴァー表紙のオーデュボンによる「卵を守るチャイロツグミモドキ」の見事な絵なのだが、正直言って何とか通読して、このコンスタンス・ルーアクという人による原書も、日本版翻訳も、あんまり感心できるような本ではなかったな、という印象になる。さっさと古本屋にでも売り払ってしまっていいのだけれども、この表紙があまりに美しいので、「やっぱり手元に取っておこうか」とか思ってしまう。

 コンスタンス・ルーアクの原書は1936年に刊行されたもので、翻訳された時点でも50年以上前の書物。まあ古いからダメなどということはないのだが、いちおうこの「訳者あとがき」にも、「それ以後の研究によって乗り越えられ、時代遅れになった側面がないわけではない」としながらも、「しかし本書は伝記というより伝記小説ともいうべきもので、上記の伝記的研究とはひと味違ったオーデュボン像が描かれている」としている。

 わたしはこの本を読む前に去年から、『ナボコフ伝』、『ジェイムズ・ジョイス伝』、そのジョイスの奥さんのノラの伝記、そしてアフリカ時代のランボーの伝記などを読みつづけてきて、ちょっとばかり「伝記」にどっぷりというところがあるのだけれども、そういう、この『オーデュボン伝』以前に読んだ「伝記もの」に比べて、たしかにずいぶんと毛色がちがうというか、そういう「伝記」のつもりで読んでいると「アレレレレ?」ということになった。
 まず、この『オーデュボン伝』には、時系列での「連続性」というものが欠けている。例えばオーデュボンがその夫人を伴ってイギリスからアメリカに渡るのだが、次の場面ではオーデュボンはアメリカで一人旅をしていて、夫人に「早く会いたい」とか手紙を書いている。いったい夫人はいつどこでオーデュボンと別れ、どこにいるのかとかまるでわからないままになる。なんだか、「連続ドラマ」の途中で一回分見逃してしまったような感覚になるが、こういうのはこの伝記の中でひんぱんにあることである。
 また、「いったいそれはいつのことなのか」という年号が書かれることがめったにないので、そのときオーデュボンは何歳だったのか、その書かれている「旅」はどのくらいの長さつづいているのかとか、まったくわからないのである。「こりゃあ長い旅だなあ。読んだ感覚では2~3年の月日が経っているんじゃないか?」とか思うのだが、どうもあとに出てくる年号とかから考えると、1年も経っていなかったりする。まあ、普通に考える「伝記」とは感覚がちがうというのはたしかで、それはまさに「伝記小説」という方がふさわしいのだろうか。

 それでこの「伝記」の具体的内容だけれども、わたしが思うに、この「伝記」はオーデュボンの「日記」、「手紙」、その他オーデュボンの残した記述の「パッチワーク」のようなものではないかと思われる。
 実はわたしはこの『オーデュボン伝』を読む前に、別に求めた『オーデュボンの自然誌』という、オーデュボンの書いたもののアンソロジーをちょっとだけ読んでいたのだけれども、そのオーデュボンの手記に書かれていた話がそっくりそのままの形でこの「伝記」にも出てくる。また、この「伝記」には、旅先でオーデュボンが目にした、やたらにたくさんの鳥類の名前が登場してくるのだけれども、こんな鳥の名の羅列はオーデュボンの書いたものに頼るしかわかり得ないものだろうし、作者はただオーデュボンの手記、手紙、日記を「丸写し」にしてるだけではないか、と思わざるを得ない。
 じゃあこの伝記の作者の「オリジナル」なところは何か?って聞きたくなるのだけれども、つまりこの伝記は、オーデュボンの残した日記や手紙を編集し、いちおう年代順にまとめ直しただけなんじゃないかとも思える。それからいちばん末尾に、「実はオーデュボンはルイ16世マリー・アントワネットとの子ではないか?」という、「トンデモ」のたぐいの「お話」を展開されておられるが、さすがに翻訳者も「その説は否定されている」とか書かれていたが。

 そして、この『オーデュボン伝』には、「書かれていないこと」がいっぱいあるだろう。
 また、先にちょっと読んだ『オーデュボンの自然誌』のことから書くけれども、オーデュボンには互いに相反する「四つの人格」が、非常にデリケートなバランスを保ちながら、彼という人間を成り立たせているという記述がある。それは以下の通りである。

それは獲物に勝って喜びいさむ猟師であり、色彩のゆらめきに心躍らせる画家であり、生態を観察する科学者であり、また美しい命が失われるのを嘆く、心から自然を愛する者でもある。

 それで、この『オーデュボン伝』でまったく無視されているのが、4番目の「自然・環境保護」に目を向けるオーデュボンの存在である。
 まあこの本が書かれた1936年には、そ~んな「自然・環境保護」ということも注目されなかった時代かとも思うが、今も活動する「全米オーデュボン協会」が組織されたのは1940年。さらに遡る1905年にはその前身の「オーデュボン協会全米団体」というのが設立されていたという記述はネット上に見つけられる。
 この本の著者が「自然・環境保護」について「無関心」だったろう、ということはこの伝記を読めば痛烈に読み取れるところであるけれども、1993年に刊行された、この邦訳書においては、せめて「あとがき」とか「解説」なりのスペースで語るべきだったのではないかと思う。まあ、もう30年も過去のことではあるけれども、「なぜ書かなかったのだろうか?」

 ここで「翻訳」の話になるけれども、この邦訳書、日本語として非常に読みにくい。どうしてこういう表現になるのかいぶかしく思うところがあらゆるところにあるのだけれども、ひょっとしたら「原文」がこういう表現になっていたのかもしれない。それをまるで「自動翻訳マシーン」で翻訳したようなものが、この邦訳なのだろうか。
 ちょっと些細なことで気になったことを書けば、とちゅうでオーデュボンと宿を共にした男が、夜になると「ロバート・バーン」の詩集を朗読したという記述があるのだけれども、そんなの、わたしだって「そりゃあロバート・バーンズだろうが!」ってわかる。ちょっとあきれてしまう。まあ訳者は「アメリカ文学」専門だというので、イギリスの詩人のことなど知らなかったのだろうか。
 もうひとつ書けば、本文の中にオーデュボンの著作として『鳥類学的伝記』というのが何度も出てくるのだけれども、いったいぜんたい、「鳥類学的伝記」とは何のことなのだろうか? 翻訳者はこの「鳥類学的伝記」という言葉で、明確なイメージを抱けるのだろうか? わたしにはさっぱりわからない。
 この、翻訳者が訳した『鳥類学的伝記』とは、英語では「Ornithological Biography」。「Ornithological」が「鳥類学」ということはゆるぎようもないだろうけれども、「Biography」を普通に「伝記」と訳すから、「鳥の伝記って何よ?」って感じになる。
 わたしゃ、ウチの英和で「Biography」を調べちゃいましたよ。そりゃあ和訳として「伝記」と出てくるのだけれども、ここで重要なのはその「語源」として書かれていたことで、つまり<bio「生物(について)」+graphy「記述したもの」>としての「Biography」という語で、そのまま読めば「鳥類学上の生物について記述したもの」となる。そりゃあつまり、平たくいえば「鳥について書いたもの」という意味だろう。
 じっさい、今ではこの「Ornithological Biography」は、邦訳が出ているわけではないが、一般に『鳥類の生態』と翻訳された書名で知られている(この翻訳の出た1993年には知られていなかったのだろう)。

 まあはっきり言って、自動翻訳みたいな妙な日本語翻訳で、この人はアメリカ文学専攻だからロバート・バーンズは知らない、そしてオーデュボンの本を訳しても、オーデュボンの「自然・環境保護」的視点にはまるで興味ありません、そして『鳥類学的伝記』などという奇妙奇天烈な訳語は発明する。なんか、翻訳の仕事をもらったけれども、「ちゃっちゃっ」と仕上げてしまえばいいや、みたいな姿勢が透けて見える気がする(まあ30年前の本だからいいんですけれども)。