ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-11-05(Fri)

 朝起きてリヴィングに行って、ニェネントくんのトイレを見てみると、めでたく「お通じ」があったようだった。とにかくはひと安心だけれども、このところ便秘気味なことは確かなので、注文したサプリメントの到着を待とうと思う。

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 今日も雨の心配はないようだ。それでもまた、空にはけっこう雲もかかっていた。しかし今日も南の空は晴れていていくつかの星が見えた。またひときわ明るい星が目につき、「あれがシリウスだとしたら、その西の空を見ればオリオン座が見つかるはずだ」と目をこらしたら、うっすらとオリオン座の四角星と、その中心に三つ並んだ星が確認できた。やはり、あの明るい星はシリウスだった。今まで「明るい星が見える」ぐらいの認識だったが、これからは「あれはシリウスだ」と思って目をやるだろう。

 仕事のあとに歯科医での治療があった。今日が左下の歯のさいごの治療だと言われた。ちょっと時間がかかり、治療中にうつらうつらしてしまった。来週はその治療した歯からブリッジをつくり、治療時間も一時間から一時間半ぐらいかかるという。いちおういつものように仕事が終わってからの時間で予約したけれども、そんなに時間がかかるのなら仕事を早退させてもらうか、いっそ休みをもらって、もっと早くから治療を始めた方が良かったかとも思う。

 帰り道、自宅駅からの跨線橋の上から南の空を見ると、美しいすじ雲がかかっているのが見られた。秋らしい空というのだろうか。

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 帰宅して昼食を終え(またこの日も「とろろそば」だった)、ネットをあれこれ閲覧していると、アメリカの記事を翻訳した『「孤立で認知症リスクが50%増加」健康で長生きするために必要な社会的繋がり』というのが目にとまり、読んでみた。
 つまりここで問題にされているのは「社会的孤立」や「孤独感」というようなことで、表題にあるように「社会的孤立」は認知症のリスクを50%増加させ、「孤独感」はうつ病、不安神経症、自殺の割合の増加と関連すると。
 この記事はアメリカの科学・工学・医学アカデミーが発表した50歳以上の人々に焦点を当てた最近の報告書によるものらしい。アメリカの45歳以上の成人の3分の1以上が孤独を感じていることがわかり、65歳以上の成人の約4分の1が社会的に孤立していると考えられているという。
 「最近の報告書」といっても、正確に「いつの調査」によるものかわからず、つまりこの調査に「COVID-19」の感染拡大、ロックアウトなどがどれだけ影響しているのか不明だけれども、当然「COVID-19禍」と関連して考えるべきことだろうと思う。日本でもつい先日、「働く女性の自殺の増加」が報道されていた。

 それで、こういう記事を読むと「じゃあわたしはどうなのか?」と考えざるを得ない。じっさい、ある面でわたしは相当に「社会的に孤立」し、今は知人、友人らとの交遊もまるでなく、そもそも人と会うことからしてほとんどない(わたしの仕事はルーチンワークで、会社の人とのミーティングもないし、仕事中に同僚と話するのも「あいさつ」ぐらいのモノである)。
 そうすると「オレってヤバいじゃん!」ってことになりそうで、まあ「社会的孤立」は近いところがあるかもしれないけれども、実のところ「孤独感」というのはまるで意識していない。

 たしかにわたしも「COVID-19禍」という要因もあって人と会わなくなっているところもあるけれども、わたしの場合、ちょうどその「COVID-19禍」の直前に交通事故の後遺症でしばらく入院した影響も強かったと自分で思うし、そもそも「人に会いたくない」というのは、今では「自分の決定」でもある。
 そりゃあ以前の、気の置けない友人たちとの会合とか、思い出すと「楽しかったね」ということもあるけれども、考えてみると去年の「入院」の前あたりから、正直言って「人と会って不愉快な思いをした」ということも連続していたように思う。
 「人と会って不愉快な思いをした」ということが連続した場合、それは「わたし」の側に問題があったのではないかと考えることが必要で、わたしもそういう「検証作業」を繰り返したのだけれども、今のわたしにそこにわたしの側に過誤があったとも思えず、またそういうことを思い出すと不愉快な気分に囚われてしまう。どんな不愉快なことがあったのか、ここにつぶさに書いておきたい気分にもなるけれども、今はそういう「うっぷん晴らし」みたいなことは慎んでおこう(いずれ最後には書くかもしれない)。
 そういうことでは「あの人、あの人たちとならそんな不愉快な思いもしないだろうという人たちと会っても?」とも思うけれども、そういうことがあってももう少し先のことになるだろう。

 つまり、今のわたしはある意味で「引きこもり」的なところもあるのだろうと思う。毎日仕事で出勤はするけれども、そこで人と交流があるわけでもなく、仕事が終われば直帰する。通勤コースから外れてどこかへ出かけるということもなく(たまにとなり駅の映画館へ映画を観に行くが)、自宅駅近くの「ふるさと公園」、わたしが勝手に名付けた「野良ネコ通り」を歩いて、ネコや水鳥などの動物に出会うのを楽しみにするばかり。家に帰れば同居ネコのニェネントとのアンチームな生活が待っている。まあ「外の世界とのつながり」というのでは本を読んだり、たまに映画を観たりしてある程度は保たれているとは思う。そういう意味でわたしには「孤独感」というのは無縁の感情だし、先に書いたように人と会うのは「わずらわしい」という思いも強い。だから自分では今の暮らしでそんなに問題も感じていないのだけれども、どうなんだろうか? ほんとうは今やりたいこともあって、そのことにいまだに着手できないでいる自分に不満はあるのだけれども。

 夕食にはついに「料理らしい料理」、「肉じゃが」をいっぱいつくった。まあ「料理」といっても、「肉じゃが」というのは炒めて時間をかけて煮込むだけのモノだから、そこまで手間をかけるような料理ではない(シラタキ以外の材料も料理の手順も、カレーライスをつくるのとおんなじである)。シラタキを入れるのが早すぎて、出来上がりはシラタキもまっ茶色になってしまった。これは最終段階で投入すれば、シラタキだけにまだ白い色が残り、全体を色彩的に引き立てるポイントになったはずなのだ。
 寝る前に、あと100ページぐらいだったシャーリイ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』を一気に読み終えてしまった。面白かったので、あと2冊の持っていないシャーリイ・ジャクスンの長編小説も買ってしまおうかと思うことになった。