ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ノン子36歳(家事手伝い)』(2008) 熊切和嘉:監督

 熊切和嘉の監督作品だったのだな。わたしは熊切和嘉監督がダメだとは決して思わないけれども、ど~してこの人はこうやって、「昭和時代の演歌風ニューミュージック、またはニューミュージック風演歌」みたいな映画を撮るんだろうか。

 都会に出て芸能界でデビューしたけれども「鳴かず飛ばず」で、しかも自身のマネージャーと結婚するもすぐ離婚、田舎の実家が「神社」で、つまりはそこで家事手伝いの隠遁生活をおくるヒロインのノン子。その神社の祭りで「ひよこ」を売ろうとやって来る若い男と知り合い、男は雨で祭りが延期になったあいだ、ノン子をたよって神社に居候している。そこにノン子の前夫、元マネージャーがあらわれ、「また東京で仕事やろう!」とか持ちかける。ひよこを売ろうとする男にも心が動くし、前夫の登場で「動こうか」となるノン子だけれども‥‥、という話。

 だいたいこの、晴れやかな「上昇志向」の「東京」があって、一方で「吹きだまり」のような田舎、という対比が「どうよ?」という感じ。もちろん、そこまでに図式的な描き方ではないのだけれども、「2008年にこ~んなスナックが?」というような、<和風スナック>というスポットも、さらに「こ~んなところ、どこに?」という感想にはなる(まあ、あるところにはあるのだろうが)。なぜか丁寧に撮られた男女のからみもまた、「昭和ロマンポルノ」ですか?というところだし、保守的な田舎の人たちだってステレオタイプだろう。
 そもそも、「東京」に対抗してだかなんだか、「田舎の神社の祭り」というのも、「どうよ?」ってところだ。
 まあ思い返してみれば、最近観た日本映画でも山戸結希監督の『溺れるナイフ』もしつっこく「田舎の祭り」を舞台にしていたし(蓮實重彦氏は「2回も祭りを出しやがって」と怒ってたが)、さらにさかのぼれば相米慎二監督の『お引越し』だってそうだ。この映画を観て振り返れば、な~んかみ~んな「日本の田舎のお祭り」に頼ってるみたいで、寂しいというか、「田舎と言えば<祭り>かよ!」というイマジネーションの貧弱さも感じてしまうではないか。

 わたしは別に「脚本のリアリティ」みたいなことを言いたくはないのだけれども、やっぱり、例えばこの「ひよこ」を売りたい若い男は、雨で祭りが順延した一週間のあいだに「出店するための」根回しとかしねえのかよ!とは思うし、さいごにノン子がその男を「置いてきぼり」にする場面、男がタバコを買いに行くんなら女もいっしょに買いに行くのが普通ではないのか。「タバコ買って来るから待っててくれ」というのはおかしいのだ。普通、「タバコ買うから、いっしょに来てくれ」だろう? 例えばそれが、「ちょっとトイレ行ってくるから待っててくれ」だったら了解は出来る。とにかく、脚本なんか多少ぶっ飛んでてもいいんだけれども、やっぱり「不自然」だとは思ってしまったな。不自然なものは不自然だ。
 その脚本のことでしつっこく言っておけば、だいたい実家の「お母さん」とか、ノン子の妹、そして自分から馬脚をあらわす前夫など、あんまりにも描写が浅いではないか、とは思ってしまう。そして、「リアリズム」の観点からいうと、荷物も持たずにやって来た男が、毎日毎日違うTシャツに着替えてたのも「ど~して?」とは思ってしまったのだった(まあ、ノン子が貸してあげたのかもしれないが)。さらに、「ひよこ」ってえのは一週間も経つとすっごい成長してしまうのだな。もう「ひよこ」とは呼べなくなる。まあそういう「リアリズム」は、ここではどうでもいいことかもしれないけれども(わたしは白けた)。

 冒頭しばらくのカメラ・アイはとってもよくって、綿密なロケハンとか絵コンテの勝利だろうかとは思ったけれども、そのうちにどうも、そんなことはどうでもよくなってしまったみたいだった。あとは、気味悪くもセンチメンタルな音楽は、まったくわたしの好みではなかった。