ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『サム・ペキンパー 情熱と美学』(2005) マイク・シーゲル:監督

 原題は「Passion & Poetry:The Ballad of Sam Peckinpah」で、監督はサム・ペキンパーの伝記を書かれた人なのだという。映像としてペキンパーの「思い出」を語るのは、アーネスト・ボーグナインやR・G・アームストロング、L・Q・ジョーンズらペキンパー作品の常連、そしてセンタ・バーガーやアリ・マッグロウらの女優たち。ナレーションを勤めるのはモンテ・ヘルマンだったりもする。

 先に書いておけば、このドキュメンタリーでサム・ペキンパーの「Passion」は了解できる。しかし、ではどこに「Poetry」があるのかと問えば、わたしにそれを見つけることは出来なかった。
 つまり、「ペキンパーが彼の映画で描きたかったものは何か?」という根本のモノが見えない。

 「私自身や人生のすべてをスクリーンにぶつけた」と、このドキュメンタリーの冒頭はサム・ペキンパーの言葉で始まるけれども、おそらくはこのドキュメンタリーの監督は、この言葉を字句通りにとって、ペキンパー自身、ペキンパーの人生をこそ描こうとしたのだろう。
 もちろん、スタートとしてそういうアプローチ視点が間違っているとは思わない。では、ペキンパーの映画はすべて、ペキンパーの人生のすべてを提示すれば解釈できるのかという「疑問」がある。このドキュメンタリーに決定的に欠けているのは、「映画作家」としてのペキンパーを問おうとしていないことにあるだろう。いったいなぜそういう「演出」をしたのか、彼は俳優に何を求めていたのか、このドキュメンタリーで描かれるような「表象的」な事象で解釈していいのか、端的にいえば、あの「スローモーション」の多用はどこから来ているのか。

 いちおう、このドキュメンタリーではペキンパーの全14作品を駆け足で紹介はしているようなのだが、それぞれの作品への掘り下げはまったく(ほとんど)なされていない。
 プロデューサーと監督との衝突というのはこの時代の「ハリウッド映画」では日常茶飯事ではあっただろうし、そりゃあ映画監督は自分が撮ったモノを消去(カット)されたくはないと考えるのはしごく当然のことだろう。では、そこまでして監督がプロデューサーから守ろうとしたのは、いったい何だったのか。つまり、ペキンパーが「私自身や人生のすべてをスクリーンにぶつけた」としたものは何だったのか。
 この作品は、けっきょく終盤にはことさらにペキンパーの酒乱、ドラッグ中毒を語るだけで、肝心かなめの「問題」に答えを出そうとはしていない。監督はリチャード・エルマンの『ジェイムズ・ジョイス伝』でもしっかりと読んで、自分の姿勢をいちど問い直すべきだっただろう。