ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-06-30(Wed)

 面白い夢を見たのだけれども、ここに書くとなるといろいろと説明しなければならないことが多いので、面倒だ。スマホのカレンダーアプリにかんたんに書いておいたのでそれでいいや。

 昨日、折りたたみ傘をたたんだまま仕事場のロッカーに置き忘れてしまったので、「今日雨が降るとめんどうだなあ」と思っていたのだが、幸い今朝は雨も降っておらず、晴れるということはなかったけれども、一日雨が降ることはなかった(夜には雨になったようだった)。

 仕事の帰りに、今日も「野良ネコ通り」を歩いた。人間の世界も「COVID-19禍」の緊張もゆるみ、繁華街への人出が多くなったという報道を目にするけれども、今日の「野良ネコ通り」もまた、緊張のゆるんだネコたちの姿を多く目にすることができた(といっても3匹だけなのだけれども、いちどに3匹に出会うのは「初めて」かもしれない)。

 まずは、初めて出会うまだ幼い感じのトラネコくん。わたしの姿をみて車の下に隠れてしまったけれども、気になるのか顔を出してわたしを見上げてくる。眼がクリッとしてるし、足が白い靴下をはいたように白くってかわいい。

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 そして、昨日も出会ったクロハナくんが、昨日とだいたい同じ場所でまた寝転がっていた。この場所が居心地がいいのか、それとも意外とココの飼いネコみたいになってるのだろうか?

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 先に歩いて行くと、空き地の草原の中にヒゲ殿下の姿があった。けっこう久しぶりの再会。草原の中で一匹、孤独を楽しんでいるのか。ヒゲ殿下も、こうやってみると耳がカットされているのがはっきりとわかる。

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 ウチに帰ると、郵便受けに注文してあった『歌うカタツムリ』の本が届いていた。包装を解いてパラパラッと読み始めてみたのだけれども、どうもこれはカタツムリの生態について書かれた本ではなく、20世紀の「進化論」の変遷の話が中心らしく、その中で、遺伝の問題としてカタツムリがクロースアップされるような本のようだ。
 正直言ってそれはちょっとがっかりで、もっとカタツムリのことがいっぱい読めると思っていた本だし、そもそもわたしは、ダーウィンの「進化論」というものにほとんど興味がないのだ。というか、気分的には「反進化論」主義みたいなものがある(って、ちっとも「進化論」とか学習しないで勝手なことを言っているわけだが)。ま、わたしの知らない分野のことを学ぶつもりで読んでみましょう。

 さてわたしは、ランボーのことをまだ考えているのだが、ランボーの「詩」のことを考えるのではなくてもっと形而下的なこと、「はたしてランボーは<美青年>だったのだろうか?」なんてことである。
 前にも書いたが、ランボーにはほとんど<写真>というものが残っていない。まだ12歳だったときの写真、そしてあまりに有名なパリ時代の肖像写真(この時代の写真はまだまだ他にもあったらしいのだけれども、ランボーとケンカした男が腹立ちのあまり写真ネガを破り捨てたという)、そのあとはアフリカでの商人時代のあまりはっきりしない全身の写真が何枚かあるだけだろう。下の写真はそのパリ時代、17歳のランボー

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 この写真を見ると「美青年だなあ」とは思ってしまうのだが、先日読んだ奥本大三郎氏の『ランボーはなぜ詩を棄てたのか』には、どこにもランボーが「美青年」だったなどとは書かれていない。逆に、ランボーと最初に会ったヴェルレーヌ夫人のマチルドは、「若い天才詩人というから、流行の服に身を包んだ、エレガントな美青年が来ると期待していたのに、そこにいたのは、大きな手足をした、農民風の少年だった」ということになる。
 待ち合わせた駅でランボーを見つけられなかったヴェルレーヌもまた、ランボーを見て、先に送られて来た才能あふれる詩作品のイメージとあまりに違うのでおどろく。「大きながっしりした身体に、まるっきり子供、と言ってもいい顔が載っているのだ。」駅でランボーを見つけられなかったのも道理である。
 しかしその後ランボーヴェルレーヌは「そういう」関係になってしまうわけで、それはヴェルレーヌがその後成長したランボーのことを「むむ、美青年!」と惚れたのか、いつも二人いっしょに行動したもんだからやむなく(?)そういうことになってしまったのか、そういうところはよくわからないが。

 どうも奥本大三郎氏の本では、原典も示されていないので不明なところも多く、「ほんとうのところはランボーはどんな印象を人に与えたのか?」ということはちょっと知りたくなってしまう。やはり分厚い『アルチュール・ランボー伝』を注文すべきだろうか?

 たとえば映画ではあのレオナルド・ディカプリオランボーを演じた『太陽と月に背いて』という作品があったわけだけれども、わたしは特にディカプリオが「美形」だとも思っていないので、その映画あたりがイメージとしては近似しているのかもしれない。まああまり観たいという映画ではないが。
 そんなことを考えていたら、その昔、テレンス・スタンプランボーを演じた映画があったのではと思い出した。調べてみるとそれは1971年の作品『ランボー/地獄の季節』で、単にヴェルレーヌジャン=クロード・ブリアリが演じている)との関係だけでなく、ランボーが詩作を放棄し、アフリカに渡ってさまざまな職業に就き、ついに悪性腫瘍で死亡するまでを描いた映画らしい。
 そうやってその映画のことを知ってみると、テレンス・スタンプランボーを演じるというのは似合わないようにも思っていたのだけれども、実はランボーのアフリカ時代の写真のイメージは、たしかにテレンス・スタンプを思わせるものがあるだろうか。

 なんだか急にその映画が観たくなってしまったのだが、古い無名の映画にもかかわらず、Amazonで古いDVDが売られているのを発見してしまった。今日はまだ注文してないが、早急に注文したいと思っている。