ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ブリーディング・エッジ』トマス・ピンチョン:著 佐藤良明・栩木玲子:訳

 2013年、あの9.11の2年後にアメリカで刊行されたこの本が、8年かかってようやく日本で翻訳が刊行された。これだけの長さ(とはいえども他のピンチョンの長編に比べると「短かい」ともいえるのだが)、さまざまな分野のトリヴィア的情報を組み入れた重層的な構成、そりゃあ翻訳もさぞかし難儀されたことだろうが、そういう意味では読みやすい日本語で、難解と定評のあるピンチョンの作品を読めるようにしてくれたのはありがたいこと。

 しかし、ピンチョンのこの前の作品はというと2009年刊行の『LAヴァイス』なわけで、この『ブリーディング・エッジ』の4年前。ピンチョンならば『LAヴァイス』刊行後にはすぐにもこの『ブリーディング・エッジ』の準備に入っていたのではないかとも思えるけれども、この作品の中心にはあの「9.11」という事件が据えられているわけで、やはり「9.11」のあとにこの作品の準備を始めていたのだろうか。だとすると、わずか2年で書き上げているわけで、ピンチョンとしてはかなり速いペースでの執筆だろう。その前に新作執筆準備をすでに進行させていたところに「9.11」が起き、その事件を活かして再構成し直してこの作品になったのか。いややはり、そういうことは考えにくい。やはり、「9.11」以降にこの作品執筆のすべてが始まったと考えるのが自然だろう。

 ストーリー展開はその前作の『LAヴァイス』、そして1966年の『競売ナンバー49の叫び』に似ているというか、つまり主人公が大きな「謎」に立ち向かっていくというミステリーで、その主人公がマキシーンという女性であるということでは、エディパ・マーズという主婦が主人公だった『競売ナンバー49の叫び』を思わせられる。というか、『ブリーディング・エッジ』の、「世界を動かす大きな陰謀があるのでは?」という展開はまさに『競売ナンバー49の叫び』に共通するものではないか、などと思って読み始めると、「世界中の鴨の切手を収集している」という切手コレクターの話も出てきて、「やっぱり『競売ナンバー49の叫び』ではないか!」などと思ってしまった(これはピンチョンのいたずらだったみたいだけれども)。

 この『ブリーディング・エッジ』を読む前に、同じピンチョンの『メイスン&ディクスン』の上巻までを読んだところだったのだけれども、その18世紀の世界中をかけめぐり、膨大な登場人物と膨大な情報をあふれさせた作品の「読みにくさ」に比べると、『ブリーディング・エッジ』ははるかに読みやすい。主人公のマキシーンは出ずっぱりで大きな「謎」に立ち向かいながらも、2人の子どもを育てるお母さんでもある。いちどは別居した夫とのよりを戻して新たに「家庭」を出発させる物語ではあるし、ベレッタ銃をバッグにしのばせてのハードボイルドな姿も見せてくれる(ストリップもやるよ~)。また、調査のなかで出会った秘密組織の活動員を憎みながらも心を通わせるマキシーンの心の動きは、わたしにはこの作品の中で「じ~ん」としてしまう挿話ではあった。

 そしてやはり、この作品で重要なのはその2001年当時のテクノロジーでのインターネット内の「ヴァーチャル空間」への旅というか、その仮想空間の描写がまさにウィリアム・ギブスン的な「サイバースペース」を思わせるものであり、作品の「サイバーパンク」への接近を感じさせられる。

 そもそも、ピンチョンの作品『V.』も『重力の虹』もサイバーパンク的なとらえ方もされていたわけだし、ウィリアム・ギブスンもピンチョンからの影響を語ってもいたわけだった。
 しかし、『V.』にせよ『重力の虹』にせよ、その描写として「サイバーパンク的」と読まれていたわけで、ピンチョンの作品として「インターネットでのヴァーチャル空間」を描かれたのは、これが初めてのことだろう。
 そして、インターネットという世界もまた、もっと大きな存在に管理されていて、「自由」というのも「幻想」だろうという視点が提示される。

 目くらましのようにちりばめられる、さまざまなトリヴィア的記述こそはやはりピンチョンの魅力でもあるのだけれども、わたしはそんな中で、この小説に登場する70曲ぐらいの音楽をリストしてみたりしたのだ。ピンチョンらしいオールディーズから、2001年にまだアクチュアルだっただろう音楽、ロシアのラップからイスラエルフォークソング(主人公のマキシーンはユダヤ人なわけで、このこともけっこうこの作品では重要なポイントだった)、そしてプッチーニのオペラまで。
 『LAヴァイス』も当時のさまざまな音楽が取り上げられ、映画化したポール・トーマス・アンダーソンはそこから絶妙なサウンドトラックをつくりあげていたわけだけれども、わたしも遊び心で、この小説の音楽70曲の中から20曲ぐらいセレクトし、『ブリーディング・エッジ』サントラ盤をつくってみたい。
 あと、さまざまな映画の記述もあるが、じっさいには存在しない、今の俳優が過去の映画スターを演じるという「フェイク映画」が多数登場する。音楽にもじっさいには存在しない「フェイク音楽」が登場するが。

 ピンチョンのこのようなトリヴィア的記述は、ひとつのカウンターカルチャーを提示するものとしても興味深いけれども、この『ブリーディング・エッジ』はピンチョンには珍しく、ほとんど現在形という事象が描かれていることもあり、そういうカウンターカルチャー的視点はより鮮明なのではないかとは思う(日本では翻訳が遅れたのでちょびっとアクチュアル感は薄れたかもしれないが)。

 ヒロインのマキシーンは、作品の中で「レイチェル・ワイズに似ている」と書かれているのだが、可能ならばそのレイチェル・ワイズ主演で映画化されるといいものだとは思うが(まだ彼女も年齢的に間に合うだろう?)、やはり「9.11」絡みだから映像化はむずかしいだろうか。もう刊行されて8年も経ってるしな。
 もしも映画化が実現して、レイチェル・ワイズが主演するのならば、やはり「あの男」を演じるのはダニエル・クレイグだろうな。

 ちょっと読み終えたばかりでの「感想」で「不完全」なものではあるし、やはりもういちど読んでみたい本でもあるのだが。