- 発売日: 2012/07/03
- メディア: Blu-ray
監督のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥも脚本のギジェルモ・アリアガもメキシコ人だけれども、アメリカ製作の作品(ここにも、この作品の中のアメリカとメキシコの「国境」をめぐるストーリーを読み取るべきだろうか?)。
モロッコの砂漠で羊を飼って生きる家族の、まだローティーンに見える兄弟が父の入手したライフル銃を託され、羊を襲うジャッカルを撃てと言われているが、兄弟は試し撃ちに砂漠を走る観光バスを狙う。
観光バスにはカリフォルニアから来た夫婦(ブラッド・ピット&ケイト・ブランシェット)が乗っていて、弟の撃った銃弾が窓際に座っていた妻に命中してしまう。彼女はひん死の重傷を負うが、あたりに病院もなく救急車も来ない。
夫婦はカリフォルニアに幼い姉弟を残してきており、メキシコからの不法就労の女性が二人の面倒をみている。しかし彼女はメキシコで息子の結婚式に出席する予定を立てているのだが、事故に遭遇した夫婦は戻って来られない。結婚式に出席したい彼女は、ついには姉弟を連れて国境を越えて結婚式に行くことにする。
モロッコの兄弟が手にしたライフル銃は、実は日本人ハンター(役所広司)がモロッコを訪れたとき、世話になったガイドに譲ったものだった。そのハンターは東京の都心のマンションでリッチな暮らしをしているが、妻はしばらく前に自殺していて、残された高校生の一人娘(菊地凛子)はろう者で、年齢的に肥大した鬱屈した欲望を抱えている。
この映画は「モロッコでライフルでバスを射撃した兄弟、撃たれたアメリカ人の話」、「その撃たれたアメリカ人の姉弟を連れて国境を越えた不法就労者の女性の話」、「モロッコにそのライフルを残した男の、そのろう者の娘の話」の3つのストーリーからなり、一丁のライフルが起こした事件につながる3つのストーリーが交差、並行して語られる。タイトルに『バベル』とあるように、人々の意図しない、意図されないさまざまな「分断」がシビアに描かれた作品だと思った。
悲しいのは、それぞれの登場人物らは皆、基本は自己の「正当性」の中で生きているはずなのに、ある種の「遮断」から自身の身を「困難」の中に置かなければならなかったということにあるだろう。そこには「世界、社会の格差」の問題もあるだろうし、そのことは「国境」、「言語」ということが派生してくる。同じ国内(日本)でも、言語伝達の困難な人はいて、そこには「壁」が厳として存在するだろう。そして、派生して「親族の死」をどのように自分の中で納得させるか、という問題も出てくるだろう。そして映画の中でこの事件を伝える報道では、「これはテロリズム?」という形で全世界に(東京でも)ニュース報道されているのだけれども、現地に残されて救出を待つ重傷の妻と、救出を待つ夫の「孤独」な境遇は、そんな「世界ニュース」とまるでバランスが取れていない。このこともポイントだろう。
アメリカ人夫婦はこの旅行の前にまだ幼い(生まれて間もない?)次男を失っており、(特に夫は)その傷心を癒すためのモロッコ旅行だったようだし、モロッコにライフルを残した男はしばらく前に妻に自殺されている。その自殺は映画の最後で「銃」を使っての自殺だったことがわかり、娘の中でそのことが大きな傷になっていたことも了解できるだろう。「銃」というものの存在は、この作品ではどこまでも、大きな「影」を投げかけている。モロッコの家族にも父はいても母の姿は見られず、そこには映画では語られていない事情が想像される。
アメリカ人の夫は、異国の地でひん死の妻を助けようと、まったく文化も言語も異なる地の中で翻弄されるが、彼は英語をしゃべることしかできず、妻の救出に関して「アメリカならば」というモデルを提示することしかできないし、さいごにようやく救出のヘリ(アメリカモデル的方策の実現)が来たとき、親身になってくれて部屋も提供してくれたモロッコ人に「金」を差し出して拒絶される。
モロッコ人家族は裕福ではない。砂漠の中で自分たちのルールで生きてきたのだろうが、狙撃犯を探す警察隊が来たとき、抵抗する意思もなかったのに簡単に警察隊から銃撃され、やむを得ず弟が銃撃し返す中で兄は警察に射殺される。
カリフォルニアから、預かった幼い姉弟を連れて甥(ガエル・ガルシア・ベルナル)の運転する車で国境を越えた不法就労の家政婦は、戻るときに国境で疑われて逃走し、これも国境近くの砂漠の中に甥に姉弟と共に「置いてきぼり」にされ、まさに「死の恐怖」に直面するが、もちろんここには今なおつづく(トランプ時代に拡大した)国境をはさんだ「アメリカ合衆国」と「メキシコ」との貧富の差があり、「不法就労」ということの実態にふれることになるだろう。
日本ではろう者の女子高校生がフィーチャーされるが、(いかにも当時の東京の街を彷彿とさせる映像の)夜のクラブに同世代の若者らしくも出入りもするが、自分が「ろう者」であることを同じ世代の男性と知り合うことの「障害」になると感じ、鬱屈して肥大した欲望が彼女なりの解決を求める(彼女が刑事に知らせる「嘘」と、そのあとのおそらくは「真実」を伝えるメモ、~そして刑事がマンションのロビーで帰ってきた父親とすれ違うときに交わす会話から、父は娘の「屈折」を知るのだ)。
とにかくは「痛い」映画で、観ていてつらかった。登場人物皆がある面で「不当な」仕打ちを受け、その「不当さ」の中でもがく姿が、観ていてつらいのだ。そして、その「不当さ」は、今わたしなどが生きていても切実に感じ取れることでもある。卑小な例でいえば、わたしに起きた「ゴミ収集問題」もそういうことで、実はこの映画を観ながらどうしてもそのこととリンクさせて観てしまう自分がいて、「このつらさを軽減させてくれる<ラスト>を観たい」と、一気にラストまで観てしまった。
アメリカ人夫妻のように、「最悪の事態は避けられてよかったね」というラストもあれば、メキシコ人家政婦のように「預かった姉弟が救出されてよかったけれども、もうアメリカでは働けないわけだね」というビターなラストもある。でも、東京のパートで父親が娘の「嘘」を知り、夜中のマンションのベランダで娘と対するラストには救われた思いがした。
モロッコ、アメリカ~メキシコ、東京と、映画の絵のタッチはそれぞれ差異をみせており、東京の夜のクラブのシーンの絵と音楽、そしてモロッコでのラフなカメラワークとの差異が印象的だった。音楽がまた素晴らしかった。
付記:どうでもいいことだろうが、ブラッド・ピットとケイト・ブランシェットの(狙撃される前の)会話で、このモロッコ旅行が「夫の意思」によるもので、妻はそのモロッコの地に飽いていることが語られる。夫はそこで「二人になりたくて(ココに来た)」と語るのだが、その土地がモロッコでもあるし、わたしは「それって、ポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』を読んだせいか?」とか、「ベルトリッチのその映画を観たのか?」とか思ってしまったのだった。むむ、ブラッド・ピットとケイト・ブランシェットによる『シェルタリング・スカイ』というのも観てみたいものだ。