ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『旅する練習』乗代雄介:著

旅する練習

旅する練習

 先日の芥川賞の最終候補に残った作品だというが、わたしがこの作品に興味を持ったのは、ひとつにはこの作家の旧作に『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』という作品があったことによる。ミック・エイヴォリーというのわたしの愛するバンド、ザ・キンクスの初代ドラマーの名であって、この『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』というのは、キンクスの名作『ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ』の、2004年にリリースされたスペシャル・デラックス・エディションに収録されたアウトテイクというか、インストナンバーのタイトルではあった(わたしはこのスペシャル・デラックス・エディションを買わなかったので、この曲の存在も知らなかったのだが)。
 実はこのタイトル、著者が今も継続しているブログのタイトルではあるらしいのだけれども(まだ読んでいないが)、そんな、わたしの好きなキンクスの曲名をタイトルに取り上げるなんて、きっとわたしが気に入るような「ひねくれた」(「キンクス」という意味は、まさに「よじれた」とか「ひねくれた」という意味ではある)作家、そしてそういう作品ではないかと思ったわけである。

 興味を持ったもう一つの理由は、この本は主人公らが我孫子(わたしの住む地である)から鹿島へと「徒歩の旅」を行うという内容だと知ったせいでもある。住んでいる地域が舞台になった小説だというのであれば、それは興味を持つ。
 文学史的にみれば、我孫子という土地にはまずは大正時代に志賀直哉我孫子に居を構え、ほぼ同じくして武者小路実篤我孫子に住んでいたことがあるという。のちに瀧井孝作我孫子に住み、我孫子は「白樺派文人らの愛する土地となったようで、いま現在もかの地に「白樺派文学館」がオープンしている。さらに白樺派とは関係なく、あの『銀の匙』の中勘助我孫子駅の近くに住んでいた。
 そのあとはずっと時代が下るけれども、わたしの好きな作家である磯崎憲一郎もまた、我孫子生まれであるという(今は住んでいないだろうけれども)。この本の著者の乗代雄介も、この我孫子に住んでいるということでもないようだ。

 語り手の「私」は、おそらくは作者の分身というか、30代中ごろらしい「作家」である。小学校をこの春に卒業する姉の娘の亜美(あび)と共に、我孫子から鹿島まで利根川沿いに徒歩の旅行を企てるのである。亜美はサッカーに夢中で、サッカーの練習に励んでいるのだが、以前鹿島でのサッカー合宿に参加して、そのときに借りた本をまだ返却していなかったのを返しに行くという「理由」がある。二人が住むのは東京と千葉の境界あたりというから、なぜに我孫子をスタート地にしたのだろうかと思うのだが、つまり地図を見ると我孫子からならば都会(市街地)を抜けずに、利根川沿いに徒歩旅行がしやすいからということなのだろうと思った。時節は2020年の3月中旬で、まさに「COVID-19禍」の始まる時期ではあったが、「緊急事態宣言」にはまだ日にちがある頃だ。

 わたしはそんな去年の正月に、自宅から北に歩いて「布施弁天」というところまで行ったのだが、その布施弁天から少し北に行けば利根川の土手があり、わたしもその土手に上がってみたものだった。
 だからわたしは、この作品で「我孫子から利根川沿いに鹿島へ行く」のであれば、我孫子駅からすぐ北にのぼって利根川の土手に出るのだろうと思ったのだったが、その道筋ではなく、わたしもよく歩いた手賀沼から「鳥の博物館」への道を行くと、手賀沼から「手賀川」という河川に出るわけで、その手賀川沿いに歩くとJRの成田線の「木下」という駅のあたりで手賀川は利根川と合流するようで、小説ではそのルートを選ぶのだった。
 わたしも成田線は何度か乗ったことがあるので、その「木下」という駅周辺の景色も何となく記憶に残っている。な~んにもないところだ。ちなみに、わたしはこの駅は普通に「きのした」と読むのだろうと思い込んでいたが、この本を読んで「きおろし」と読むことを知った。

 そんな、旅のはじまりの手賀沼周辺の描写を読んで、「これはわたしが期待していたような小説ではないな」と思うようになった。思っていたよりもオーソドックスというか、まさに旧的な意味合いでの「文学」だと思った。それでもページ数も少ない本ではあることだし、とにかくは読み進めたのだが、正直言ってこの小説の何が面白いのかまったくわからなかったし、その展開に大きな疑念も持つようになった。
 わたしは小説であれ映画であれ舞台作品であれ、ここであまり批判的なことは書きたくないし、そういうときはできるだけ簡素に書くようにしているのだけれども、この小説については「ある程度書いておきたい」と思った。

 まず、読んでいるとこの小説の執筆過程、成立過程が透けて読める思いがする。作者の乗代雄介氏は、じっさいに我孫子から利根川沿いに歩き鹿島まで行ったのだろう。その過程で風景をスケッチし、水鳥らのことを書き、思い浮かべた過去の文献の引用も書き加えたことだろう。そういう文章はたしかに巧みさを感じさせる文章であり、同じように手賀沼沿いを歩いてコブハクチョウなどの水鳥を観察したことのある身として、「わたしにはこんな巧みな文章は書けないな」とは思わせられた。

 しかし、作者以外の登場人物はウソくさい。存在しないものを無理につくり上げたと思ってしまう。特に亜美はあまりに作者に都合のいい造形だと思う。どこまでも作者に素直で、作者がベンチとかにすわって文章を書いているときにはサッカーのリフティングの練習をしているわけだから、まったく作者のじゃまにならない便利な存在だ。
 特に首を傾げたのは、二人が手賀沼の先にある「滝前不動」を訪れ、作者がそこの石碑の「不動明王真言」を亜美に読んでやると、亜美はいちど聞いただけでその「真言」を暗唱できるようになり、以後この作品の中で何度も暗唱を繰り返すということ。
 その「真言」というのは聞いただけでは意味も解らず、ただの音の符号としか聞こえないであろうに、国語が苦手で本も読まないという亜美がそれをいちど聞いただけで暗唱できるように記憶するなどということは、いくら何でもアンリアルだ(国語が苦手だからこそ暗記できたのかもしれないが)。しかもその暗唱するのが「不動明王真言」なのだというのだから、わたしには薄気味悪くもある。この作家は少女を洗脳しようとしているのか?

 わたしはこのあたりで、この作家と少女とが川沿いを歩いて川を眺め、水鳥を観察し、旧跡に立ち寄るという展開がテレビでやっている「ブラタモリ」に似ていることに思い当たった。
 「ブラタモリ」という番組の基本は、タモリが自分の孫ぐらいの年齢(そこまででもないか?)の女子アナといっしょに日本のさまざまなスポットを歩くわけで、いろいろな識者がタモリと女子アナに自分の知識を伝えるのだが、その前にタモリが女子アナと二人で歩くときとか、知識の豊富なタモリ自身が女子アナにウンチクを語るのも通例のことだったと思う。
 実はわたしは、そんなタモリが女子アナにウンチクを語るというシーンを見ているのがだんだんにイヤになり、そのうちに「ブラタモリ」という番組を見るのをやめてしまった(今はどんな番組になっているかはしらない)。
 わたしは後に、そんなタモリの態度が「マンスプレイニング」と呼ばれる事柄に近接していることを知った。このことばはジェンダー問題ともかかわりがあるのだけれども、「男性が女性よりも知識が豊富である」ということを前提に、女性に何かについてコメントしたり説明することをいう。

 わたしはつまり、この小説で作者は「マンスプレイニング」を披露していると思う*1。いったいなぜ亜美は「サッカー少女」であり、「サッカー少年」ではないのか、というあたりの答えも、このあたりにあるのではないかと思った。
 まあ亜美は「少女」なのだから、作家である「私」が亜美にあれこれと教えようとするのは「当然」かもしれないけれども、先に書いた「不動明王真言」にせよ、作家の教える野鳥の生態にせよ、あまりに素直に亜美が受け入れてしまうことにも、一篇の小説として疑問がある。

 もうひとりの登場人物の「みどり」に関しては、その造形があまりに貧弱なので、やはりただの「ご都合」で登場した人物としか思えないし、そもそも、同じ我孫子から鹿島まで徒歩旅行しようとしていて同じ時に出会ってしまうという「宇宙的な」偶然を、いくら創作小説とはいえ、わたしは受け入れることができない。

 この小説のラストに関しては、誰もが「唐突」との感想を書いているわけだけれども、「私」は自分の手元に亜美の書いた「日記」を持っていると書いてもその「日記」は秘されたままだし、みどりさんからの連絡もないままだという。小説の結末として、これはあまりにも「作品を放棄した」ものだ、という感想のみが先に立ってしまう。

 AmazonのレビューやSNS上で、多くの人がこの作品を賛美しているけれども、けっきょくわたしには「この小説のどこがいいのか」わからないままである。まあ先日観たジャームッシュ監督の『パターソン』も、Amazonのレビューでは「なぜこんな高評価なのかわからん」というレビューが多くの賛同を集めているわけだから、「世界とはそういうものだ」と、わけのわからないことを思うしかないのだけれども、『旅する練習』を読んだ人が、このわたしの文を読んで不愉快な思いをしなければいいと思うばかりではある。
 

*1:このことは、「文藝春秋」に掲載された芥川賞の選評で平野啓一郎氏もやはり「マイルドなマンスプレイニングを誘発する」と書かれていた