ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-01-27(Wed)

 野良ネコたちの話。月曜日に駅の向こうのドラッグストアへ行くとき、わたしの歩く10メートルぐらい先の道に右側から茶色いネコが飛び出してきて、道路を横断して反対側に消えて行った。わたしがそのあたりに行ったときには、もうネコの姿はどこにも見られなかったけれども、あのネコは今までに出会ったことのないネコだったのではないかと思う。
 そして昨日のことだけれども、今はすっかりネコたちの姿を見かけなくなってしまった「野良ネコ通り」にさしかかると、わたしの前にネコがあらわれ、すぐ先の道路に駐車してあった車の下に入って行った。ほとんどしっぽのあたりしか見られなかったけれども、「ヒゲ殿下」か、それとも「殿」のどちらかではなかったかと思う。それでその車の下を、姿勢を低くしてのぞいてみたのだけれども、どうやら車のボディの中にでももぐりこんでしまったようで、その姿は見えなくなっていた。
 よく、ネコが車のエンジンルームとかに入りこんでしまい、気付かずに車がスタートされてそれで大変なことになってしまうという話はよく聞いていた。「これはヤバいのではないか」と思ったが、まさか人さまの車のボディをバンバンやったり蹴っ飛ばしたりするわけにもいかず、しばらくは離れたところで見ていたのだけれどもネコが出てくる気配もなく、仕方なくわたしもその場を離れた。しかし心配だ。せっかく、しばらく姿を見なかった野良に久しぶりに再会して、「おお、この寒い中を生き延びていてくれたか!」と、心の中ではうれしい思いでいっぱいになっていただけに、それが「事故に遭うのではないか」という場面でそんなネコに出会い、「大丈夫だろうか」とあまりに心配な場面で、そのネコを置いてこなければならなかった。ただ、無事でいてくれて、また元気な姿を見せてほしいものだ。

 先日ネットで読んだコラムでは、「野良ネコが冬を越すのは困難なことだ」として、たいていの野良ネコは生き残れないようなことが書いてあった。そういうところで、かつては「野良ネコ通り」に4~5匹はいたはずの野良ネコの姿を今はまるで見ることもなくなったというのは、「やはりこの寒さを乗り越えられなかったのか」と、悲しい思いもしたものだった。
 ただ、以前別に読んだ記事では、野良ネコの平均寿命は2~3年だということも書かれていたし、じっさいにわたしが「ニェッタ」と勝手に名付けて、その姿を見ることを楽しみにしていた野良ネコは、わたしが今の家に転居して来たときからその姿を見ていて、2年前の秋まではわたしに元気な姿を見せてくれていた。2回の冬を生き延び、わたしの前に姿を見せていたのも2年半にはなっていただろう。それがまさに、「野良ネコの寿命」だったのだろうか。やはり悲しいね。
 ウチのニェネントくんだって、お母さんのミイはまさに「野良」だったわけで、わたしの「野良ネコ」へのシンパシーというものは、わたしの愛するニェネントと深く結びついていることではある。

 今日は、昨日買いそこねた「メガネのくもり止め」をまた再び、仕事を終えたあとに買いに行った。「今日入荷する」という話だったのだけれども、わたしがその店舗の前に行ってみると、店員さんがまさにその「メガネのくもり止め」スプレーらしきものを、店頭に並べているところだった。ちょうどその店員さんがディスプレイを終え、「終わったね」と腰に手をやったところにわたしが行き、「それ下さい」と買った。おそらくはわたしがそのスプレーを買った「第1号」の客だったことだろう(帰宅してさっそく試してみたけれども、やはり効果はバツグンで、もう失くさないようにしてこれからもバッチリ活躍してもらいたいと思うのだった)。

 お昼の空は、西側は晴れつつあるけれども東側は曇天、あっち側とこっち側とですっかり空の様子がちがって見えるのだった。

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 帰宅しての昼食は、昨日調剤薬局で買ったレトルトパックの「中華丼」を試してみた。むむむ、まあまあの味だけれども、前に買った「親子丼」の方がおいしかったな。
 これはAmazonで検索してみると、もっと安い価格の1パック百円以下で売られていた。まあ価格も安いし、「万一のときの保存食」として買っておこうかとは思うのだった。

 テレビをつけると、今日も「国会中継」をやっている。今日は立憲民主党の石橋氏の「今でもまずは<自助、共助、公助>と言われるのか」との質問に、スカ首相はあいもかわらず、「まずは自分でできることはやってみる。どうにもならないときは、政府がセーフティーネットで助けてくれる。そういう信頼される政府を目指したい」と答える。で、その「セーフティーネット」とは何かというと、「最終的には<生活保護>」という答えなのだ。
 これは「犯罪的」なほどに酷い答弁で、言いたいことは山ほどあるのだが、まずは<生活保護>という制度は今の「COVID-19禍」にかかわらず、「国民に保障されている福祉制度」なわけで、つまりスカ首相は今の「COVID-19禍」だからといって、国民救済策は何にもやらないと言っているに等しい。
 そして、<生活保護>を受給するには自家用車を持つことは認められないし、まずは<負債>を抱えている場合には<自己破産>申告をして、<負債>をチャラにしなければならない。コレがどういうことかというと、例えば今まで「居酒屋」をやっていた人が借金もかさみ、国からの援助もなく、「ああ、もうダメだね」と、スカのバカの言うように<生活保護>に頼ろうとすると、もう将来的にまずは、前にやっていた「居酒屋」に復帰することは出来なくなるということである。簡単に言えば、<生活保護>を受給するということは、「あんた、今までやっていた商売への復帰はあきらめなさいね」ということである。
 ある意味で<生活保護>制度というのは、受給者が再スタートを切るための支えとなるべき制度ではあるはずだけれども、これは「あなたは今まで居酒屋とか経営されてきたかもしれないけれども、もうその夢はあきらめて、次はコンビニのバイトだとか、清掃とかの仕事で自立して生き延びて下さいね」という制度なのである。それは「もしもこの<COVID-19禍>さえなければ、自分は居酒屋をやって行くスキルは持っていたわけだから、<COVID-19禍>が収束したならばまた居酒屋に復帰したい」という<希望>を打ち砕くものであろう。
 立憲民主党の石橋氏のあとは、同じ立憲民主党蓮舫氏が質問に立ち、かなり辛辣にスカ首相の政策を批判された。わたしは「よくぞ言ってくれた」という思いで見ていたのだけれども、蓮舫氏の「あなたには首相としての自覚や責任感を言葉で(国民に)伝えようとする思いはあるのですか?」との攻め立てに、スカは「それは失礼ではないですか」と言った上で、「わたしは首相就任以来、精一杯取り組んでいるところです」と答弁するのだった。
 これは何なのか? 「精一杯取り組んで」いれば、そのことだけで「評価」されるべきだというつもりなのか。例えば、前の横綱稀勢の里が結果を残せなくて引退せざるを得なかったとき、彼が「いえ、わたしは精一杯取り組んでいるので、まだまだ<横綱>をやれるのです」と言ったとして、「そうか、<精一杯>やっているのか、では評価してあげよう」などということになっただろうか。いや別に「大相撲」に例を取らずとも、「わたしは精一杯やっているじゃないか!」という申し立てが受け入れられる世界など、この地球上にはないのではないだろうか。まあ今の日本は、「この地球上」にはない異次元、異空間の世界にあるのかもしれない。

 今日の夕食は、このところトマトの消費が滞っていたもので、先日買ってあったナスと、そしてひき肉とを炒めてあげた。
 ナスというのは、フライパンで炒めてやるとみるみる柔らかくなり、色も薄くなっていくので、調理していて心動かされるものがある。思うのだが、人間というのは「炒める」という技(わざ)によって進化したところが大きいのではないだろうか。
 「焼く」というのは料理の基本だろうけれども、まあ例えば「山火事」とかで焼け死んだ動物の肉がいい匂いがして、「食べたらどないなもんやろ?」とか思って食べたらめっちゃ旨くって、「もう何でも焼くだね」となったことは想像に難くないし、「煮る」というのも、そこまで飛躍的な進歩とも思えないところがある。でも、「炒める」というのは飛躍がある。まずは「鉄板」みたいな調理器具が必要だろうし、ただそんな鉄板を熱してその上に素材を乗せても、肉なんかだったら鉄板に貼り付いてしまうし、野菜なんかもただ焦げるだけだ。ここで人類は、「牛脂」みたいなのを使えば「こりゃすげえぜ!」ということを発見するのだ(きっと、熱した肉から脂分が滲み出たのだろう)。「人類」の歴史は、ここに始まったのだと言っても過言ではないだろう。
 今は「炒める」にはバターだとかごま油だとかオリーブ油、まあ普段はサラダオイルとかを使うのだけれども、わたしはコレはすごい「発見」ではなかったかと思う。ここに、「料理」というものが始まったのだ。
 う~ん、何だか急に、「料理の歴史」というものを知りたくなってしまった。そういう本というものがどこかにないものだろうか。というか、今日の「ナスとトマトとひき肉の炒めもの」、なかなかに美味ではありました。