ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2021-01-26(Tue)

 前に買ったメガネの「レンズくもり止め」スプレーが紛失してしまった。どうもバッグのポケットに入れておいたのが、そのポケットのジッパーを閉めておかなかったため、電車の中とかで座っていてバッグを傾けたとき、こぼれ落ちてしまったようだ。けっこう効力があって役に立っていたものだから、「やはりもういちど買わないといけないな」と思った。だから、今日もまた「買い物」の話である。
 仕事の帰りにひとつ手前の駅で下車し、前に買った店に行く。それで「メガネのくもり止め」ありますか?と聞くと、今は全部売れてしまって品切れなのだという。それが明日になると、「除菌効果」をプラスした新しいヴァージョンのものが入荷するということ。別にメガネを舐めたりするわけでもないから除菌効果とかなくってもいいのだが、どうやら前のヤツがけっこう売れたものだから、これを機会に値上げしてやろうじゃないか、ということではないかと邪推する。じっさい、前に買ったものは660円だったのだけれども、新しいものは800円になるという。それはもう仕方のないことだ。また明日来ることにしようか。

 この駅のこのあたりを歩くのも久しぶりだったけれども、駅ビルの中の、この方向への出口のところにあった「一杯飲み屋」がシャッターを下ろしたままで、完全に閉店してしまったようだった。昼間はお寿司の詰め合わせとか弁当とかを店頭で売っていて、「おいしそうだな」とは思っていたのだけれども、やはり昼間の営業だけではやっていけなかったようだ。このあたりでも、街の風景が変化していく。

 さて、今は通勤電車の中でジョイスの『ユリシーズ』を読み始めているのだけれども、まずは導入部のスティーヴン・ディーダラス登場場面を読み終え、ついに「主人公」といっていいレオポルド・ブルームが登場し、俄然面白くなった。わたし、こういうの大好きだわ。よくプルーストの『失われた時を求めて』と並び賞される作品だけれども、わたしが『失われた時を求めて』を読んだのははるかに過去のことだとはいえ、こっちの方がエキサイティングに面白い。
 ただ、あまりに頻繁にはさみ込まれる「訳注」の多さにはちょっと閉口する。この文庫本の巻末に二段組みの小さな活字で150ページもあるのだが、そりゃあ中には「なるほどね」という注もあるのだけれども、例えば「シャム王国」というのに注がついていて、巻末をみてみると「現在のタイ」とか書いてあって、「そんな注、いらねえよ!」とか思うのである。で、とにかくそんな「訳注」にべったり貼り付いて読むような姿勢はやめた。
 それで、(どうでもいいことだけれども)そんな「訳注」で「これは厳密にいえば間違いだな」という注も見つけた。
 それは「ダルシマー」という言葉への訳注なのだけれども、そこには「東洋起源の弦楽器。共鳴箱に金属弦を張り、小さいハンマーで叩いて演奏する」と書かれているのだけれども、わたしはそのあたりに詳しいから言わせていただくと、「ハンマーで叩いて演奏する」のは、英語圏では一般に「ハンマー・ダルシマー」と呼ばれているものである。ここでは本文にその前に「少女がかき鳴らすあの何とかという楽器」とあり、「かき鳴らす」という記述からも、指で弾く「撥弦楽器」だろうと想像できる(ハンマーで叩いて「かき鳴らす」とは言わない)。そのダルシマーは、正確にいえば「アパラチアン・ダルシマー」というヤツで、ハンマーなど使わないのだ。そして、アイルランドイングランドでただ「ダルシマー」といえば、それは「アパラチアン・ダルシマー」のことなのだ。こっちはある意味でギターみたいなもの(膝の上に置いて演奏する)とも言えるけれども、「ハンマー・ダルシマー」は台の上に置いて演奏するもので、楽器としての出自は同じアジア起源とはいえ、その音色、演奏方法はまったく異なるものなのである。

 例を挙げよう。まずはダルシマー(アパラチアン・ダルシマー)を演奏して歌うJoni Mitchell

 そして次に、その「ハンマー・ダルシマー」の演奏。ここで演奏されているのはIrish Jigで、つまりアイルランドのダンス音楽である。

 これでただのダルシマー(アパラチアン・ダルシマー)とハンマー・ダルシマーとが、もうまったく異なる楽器になってしまっていることがわかっていただけると思う。
 このことは、イングランドアイルランドの伝統音楽を愛するものには「基本中の基本」、あったりまえのことなので、このダブリンでの一日を精緻に描いたジョイスの『ユリシーズ』の中に登場する「ダルシマー」を取り違えるというのは、それが文芸の分野の人による「過ち」だと理解していても、本来「精緻」であることを目指しているであろうこの『ユリシーズ』の訳注として、やはり「それは違うね」と言わざるを得ないのである。ある意味で「つまらない」ことではあるけれども、ある意味では「重要なこと」ではないかと思う。

 ははは、このあたりの<音楽>のこと(特にイングランドアイルランドの音楽のこと)では、わたしもついつい熱くなってしまいますね。

 わたしはツィッターもやっているのだけれども、ツィッターを閲覧していると、新作映画の紹介だとか、いわゆる「名画座」のスケジュールなどが出てくるし、美術展の案内も多く目にする。そういうのを目にすると、「わたしも今そういうのをやっているのなら観に行きたいな」とは思ったりもする。でも、この今の「COVID-19禍」では映画館、美術館、ギャラリーとかには足を向けられないなとは思う。
 それは今の政府の方針で、単に「午後8時以降の営業はやめれ」と言われるだけで、何の<補償>もないまま、「では午後8時までは目いっぱい営業せざるを得ないではないか」ということから、それはお客さんを呼びたいと思うのは当然のことだから、宣伝するのは当然のことだと思う。
 例えば都の施設、上野動物園などはしばらくは「閉園」しているけれども、それは言ってみれば「それが可能だから」なのである。それは今の「COVID-19禍」の下、「緊急事態宣言」の下で、わたしは今当然の対処だとは思う。しかし、ここで「映画館」、「美術館」などが何の<補償>もないがゆえに営業を継続し、観客を呼び込もうとツイッターなどで呼びかける。ここに、ここにこそ、今の政府の「COVID-19禍」対策、「緊急事態宣言」の、めっちゃ大きな<矛盾>がぱっくりと大口を開けているのだと思う。大きく言えば<補償>の欠如。これこそが、今のスカ政権のあまりに大きな<失策>だろうとは思う。

 今日は自宅駅のそばのいつものスーパーで、半額になっていた「がんもどき」、それと四分の一の白菜とを買った。帰宅して「さあ夕食は何にしようか」と思い、「がんもどき」、「白菜」とかで検索すると、「白菜とがんもの煮込み」というのが見つかった。なかなかに簡単につくれそうなのでやってみた。ちゃっちゃっと製作し、これがけっこう美味しかった。今日はうまくいったな。

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