ケン・ローチ監督の演出は、ある意味でオーソドックスだと思う。一方に役所仕事の「非人間性」があり、その一方で主人公のダニエル・ブレイクの周囲の人々のヒューマニスティックな結びつきが描かれる。この役所の非人間性がリアルだからこそこの作品は評価されたわけだろうし、このような役所の対応はわたしだって、この日本で似たようなことがあるだろうと言い切ることもできる。
ダニエルは心臓疾患で倒れて、それまでの大工職をつづけることができなくなる。それで役所に行き失業給付を受けようとするが、「労働可能」と判断され、まずは求職しなさいと申し渡される。しかし、医師の方は「あなたは働けない」と言ってる。
ひとつにはダニエルはPC操作に慣れていなくて、手続きをすることができない。履歴書を書くのも「手書き」なのだ(まあ日本ならあたりまえだろうが)。
そんな手続きで役所に通いながら、面会時間に遅れたために追い出されそうになるシングルマザーのケイティと出会い、彼女のために尽力することになる。
ダニエルは履歴書を「求職活動」としていろいろな企業に持って行くのだけれども、そんな中である会社から「あなたの経歴なら雇いたい」と連絡を受ける。しかし、ダニエルは「求職活動」をしているという実績をつくるための行動であり、じっさいには働くことは医師から止められているのだ。「働けない」と答えると、「おまえはふざけているのか!」と言われもする。
ケイティは生活に困り、ついにスーパーで万引きをしてしまうが、警備員の好意で見逃してもらう。しかし、その警備員はケイティに連絡し、売春に誘う。そのことを知ったダニエルは怒るが。
さいごに、ダニエルに支援手当を受けるチャンスがやってくるが‥‥。
‥‥この映画の訴えることはわかるのだが、例えば先週、この日本で、ホームレスの女性が夜中にバス停のベンチで休んでいたところを(横になれないベンチで、無理して座った姿勢で寝ていたらしいが)、どうも普段からその女性がその場所にいることを不快に思っていたらしい男性に、石を入れた袋で殴られて死亡する事件があった。しばらく前には、若い男らの集団が川辺で暮らすホームレスの男の人を襲って撲殺する事件もあった(そのホームレスの男性は地域の野良ネコのめんどうもみていたという)。
この映画でダニエルは「わたしはダニエル・ブレイク」として、行政の理不尽さを抗議する落書きをし、それは見ている市民の喝采を浴びるのだが、つまり、そういうことはもはや、この日本では起こりえない。
今の日本は、この映画で描かれたイギリスの情況よりもはるかに、「役所の対応」を越えたところで、「非人間的」なことになっている。それは、この『わたしは、ダニエル・ブレイク』ではダニエルに味方したような、いわゆる「市民」といえるような連中が、つまりは今の日本にはびこる「自助」、「自己責任」の精神のもと、自分を救えなくなった人々を排除しているということなのだ。この映画の描く「<公助>のシステムに理不尽なところがある>」以前に、「<公助>などあてにするな!」というのが今の日本なのである。
つまり、ケン・ローチ監督がこの作品で描いたよりもはるかにはるかにはるかに、今の日本という国は「ヤバい」情況になっているということなのだ。そういう意識を抜きにして今、日本人はこの映画を観ることは出来ないだろうと思う。どうだろう?