寒い。冬の訪れかと思うほどに寒い。外は冷たそうな雨がずっと降っている。わたしは押し入れから毛布を引っぱり出して布団の上にかぶせ、ふとんの中にもぐり込んで本を読む(毛布は、布団の下に敷くよりは布団の上にかける方が、ずっと布団の中は暖まるのだ)。
毛布が登場してきていちばん喜ぶのはニェネントくんだ。どうも、毛布のふわふわモフモフした感触がお母さんの肌ざわりを思い出させるものがあるらしい。ニェネントももう10歳を過ぎて、ネコでいえば「おばさん」になるのだろうけれども、やはり産まれてきたときの「お母さん」の思い出というものは大きなものがあるのだろう。この日も、すぐに毛布の上に跳び乗ってきてわたしの上でゴロゴロするのだが、そのふるまいはただ布団だけの上にいるときとはまるでちがい、わたしに「かまってよ~」と来るのではなく、毛布の上ですっかり自分だけの世界に入り込んでしまい、いつまでも毛布の上で気もちよさそうにくつろいでいる。そのうちにわたしの足の方までおりて行って、どうやらその場所で眠りはじめた気配もある。よほど居心地がいいのだろう。わたしも「まあいいや」とそのままにしていたら、わたし自身も眠ってしまうのだった。
さてこの日は、一年前に亡くなっている元首相の中曾根康弘の、内閣と自民党による合同葬というモノが行われることになっている。この合同葬のためになぜか税金が勝手に1億円近く注ぎ込まれるということで問題になったし、全国の国立大学などに「弔意を表すために」半旗を掲げてほしいとの通知も出されたという。
別に中曾根という人物は「国民の英雄」でも何でもない。いち早く原子力予算を成立させ、日本を現在の「原発大国」への道を拓いた人物であるし、「国鉄民営化」に尽力した政治家でもある。若き日の海軍時代には、彼の取り計らいによって「土人女を集め慰安所を開設」(当時の軍隊資料)してもいて、これは現在言われている「軍隊と慰安婦とは無関係」ということを打ち消すものでもあった。
そもそも、単に「内閣と自民党による合同葬」になぜ税金が使われなければならないのか。「国葬」でもないのに、なぜ大学に弔意を示させようとするのか。
さてこれは、今日の夕方になってTwitterに投稿されていた「葬儀会場への道」の写真なのだけれども、これはほとんど「ナチス」である。もはや日本は「全体主義国家」になってしまっているということだろうか。
この写真を見て思うのは、「なるほど、自民党政権は来年のオリンピックを<どんなことがあっても>開催したいわけだ」ということ。つまり彼らはオリンピックにかこつけて、この写真のようなことをやりたいわけではないだろうか。それはつまり、ヒトラーのナチス・ドイツによる「民族の祭典」の再現、なのではないだろうか。
いまげんざい、海外からは先日の「日本学術会議」への疑念の声も起こっているし、海外の文化・学術団体からの抗議の声もある。もちろん政府はそのような声は無視しているわけだけれども、それはどこか太平洋戦争前の国際世論対日本政府の状況を思わせられるものもある。さらに、上の写真が海外に知れわたったとき、海外では「日本は<危険>な国になった」との認識が起きるのではないだろうか。
菅義偉が首相になってから一ヶ月。彼は「スピード感を持って政策を実現する」と語ったというが、まさかここまでにファッショへの道へのスピードを上げることになるとは思わなかった。危機である。
それでこの日の中曾根の葬儀は2時からということなので、Twitterでは「2時からはみんなでパンクとかうるせえ曲をかけようぜ!」という呼びかけがあった。わたしも呼応して、Frank Zappa & The Mothers of Inventionの「Freak Out!」をかけることにした。なんと、54年前にリリースされたアルバムなのだけれども(当時中学生だったわたしはこの国内盤アルバムを買っていたことは自慢)、久しぶりにこれを聴いてみると、なんとこのたいていの曲の歌詞が、あまりにも今げんざいの日本の状況にピッタリだということにおどろいてしまった。さすがにFrank Zappaは不滅なのである。