ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『孤独の発明』ポール・オースター:著 柴田元幸:訳

孤独の発明 (新潮文庫)

孤独の発明 (新潮文庫)

 この文庫本を買ったのはおそらく1996年、この本が文庫化されてすぐのことだと思うけれども、実は今まで読まずに「積んどく」していた。ポール・オースターの作品はもう一冊、『リヴァイアサン』も本棚にあるが、もちろんそちらも読んでいない。
 当時はポール・オースターの人気が高まっていた頃で、「わたしも読んでみようか」的な気分で買ったのだろうけれども、読まなかった。おそらくは「ペラペラッ」ぐらい、冒頭のところぐらいは読んだのだろうけれども、まあ通読はしなかったわけだ。それはこの本の第一部が、「父親」についてのことだったからかもしれない。実はちょうどその頃、わたしの父も亡くなっていたし、その頃わたしは父に対して「あの人は何だったのだろう?」という気もちに囚われてた時期だったろう。
 わたしはまさかここで、わたしの父への気もちを書こうとは思ってはいないが、この第一部の「見えない人間の肖像」を読みながら、わたしの父のことを思い出していたのは事実だ。だから「不快感」を持ちながら読んでいたというのも事実だ(これは読み進めるとその「不快感」も消えてしまったのだけれども)。

 そのことは置いておいて、この『孤独の発明』は2部構成になっていて、第一部がその「見えない人間の肖像」、第二部が「記憶の書」である。

 まずは第一部、「見えない人間の肖像」。オースターは父の死によって実家に帰り、父のことを回想する。オースターによれば、彼の父はずっと、「不在の人間」だったという。世界と(オースターとも)紋切り型の応対しかせず、感情を持たないかのような人物。妻とも離別して「ひとりっきり」だった。
 オースターが過去の家族アルバムをみていたとき、奇妙なことに気づく。それは家族の写真から祖父の部分が破り取られていたのだ。そしてオースターのいとこが飛行機に搭乗したとき、「同じ土地の出身」だという人に出会い、そこでオースター家の過去のある事件を知らされるのだ。その事件はオースターの父にどのような影響を与えていたのか。

 第二部は「記憶の書」で、第一部との直接のつながりはない。ここでは途方もない「偶然」の話から論旨は発展していく。
 戦争中、ある男がナチスから逃れてパリの小さな女中部屋に身を隠していた。ナチスから逃れ切った男は戦争後結婚し、生まれた男の子が成長してパリに留学する。金がないのでできるだけ安い部屋をと探し、小さな部屋を見つけて父親にその部屋のことを知らせる。父親は「その部屋はわたしが戦争中に身を隠していた部屋だと思う」と、その部屋の見取り図など詳細を手紙に書く。まさに息子が見つけた部屋は、父が身を隠していた部屋だった。
 この話から、オースターは自分自身がパリで知り合った音楽家Sの小さな部屋のことを書く。オースターは連想からさまざまな「隠れ部屋」のことを書く。アンネ・フランクの部屋、デカルトの部屋、正気を失ったヘルダーリンが後半生を過ごした部屋。その「部屋」はコッローディの『ピノキオ』でピノキオが呑み込まれたフカの胃の中を思い浮かべさせ、それは『ヨナ書』でヨナの飲まれた「巨大な魚」へと連想がつながる。さまざまな部屋。閉鎖された空間。
 『ピノキオ』はオースターの息子の好きな本でもあり、オースターは息子に『ピノキオ』を読み聞かせてあげる。ここでオースターと息子との関係も重要なものとなるが、このことはおそらく、第一部での「父」とオースター自身との関係を意識して書かれていることだろう。

 そして、「孤独」ということ。オースターは、「あらゆる書物は孤独の象徴だ」と書く。その「孤独」の中に、第一部に書かれた「父」の存在が飲み込まれていくように思える。
 オースターは(この作品を書いた時点で)その本質は詩人だから、これらの記述を論理的に書きつなげるわけではない。ある面で「飛躍」があるわけだけれども、この第二部ではそんな「飛躍」こそが魅力、なのだろうか。
 しかしわたしも今、ある意味で「隠れ部屋」に棲んでいるわけで、この本によって「部屋」と「孤独な魂」とについて考えるのだった。「部屋」の中、外、壁を隔てた「こっち側」と「あっち側」。先日観た『ルーム』という映画のこととも考え合わせて、「自分のいる場所」について、考えるよすがになった書物だったと思う。