ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『この世界の片隅に』(2016) こうの史代:原作 片淵須直:脚本・監督

この世界の片隅に

この世界の片隅に

  • メディア: Prime Video

 こうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』は原作コミックも買って読んでいた。でも、映画化されたものは麻生久美子とかが出演していたにもかかわらずあまりにヒドい出来で、映画館で観てガックリしたものだった。そんな映画のことは忘れることにして、こうのさんの『ぴっぴら帳』も本屋で立ち読みして好きで、そのうちに買いそろえたいものだと思っている。でも、この『この世界の片隅に』は、わたし自身が書店のコミックコーナーに足を踏み入れなくなったこともあって、いまだに読んではいない。それでまずはこの映画から先に観てしまった。

 むかし、「暮しの手帖」という戦後文化の一翼を担った雑誌があり、この編集長は花森安治氏だったのだが、いつだったか『戦争中の暮しの記録』という増刊号を出したことがあり、これはものすごい評判になった。わが家でも「暮しの手帖」は毎号買っていたので、まだ少年だったわたしもこの増刊号を読んだ記憶が残っている。
 それで、『この世界の片隅に』を観て思ったのは、まずこの『戦争中の暮しの記録』のことだった。主人公のすずが嫁入り先の義姉に「つぎのあたったモンペなどはいてみっともない。広島から来たというからもっと垢抜けしてると思ったのに!」などとくさされ、持参した和服を解体して普段着を仕立てるところだとか、だんだんと物資難、食糧難がはげしくなって、わずかな配給物資をやりくりして夕食をつくるクックパッド的展開、「楠公飯」の報われない苦労など、まさに「戦争中の暮しの記録」的だと思ったし、町内会の当番、回覧板のやり取りなど、「こんな生活だったのだな」と思ったりする(まあ、町内会は今だって存続しておるのだが)。
 しかし、砂糖を蟻の略奪から守ろうとして逆に全滅させてしまい、義母のへそくりで闇市に砂糖を買いに行ったすずが、そのあまりの高さにおどろき、「そのうち150円とかにもなってしまうのではなかろうか」と独白するのだが、まあどれだけの量で「150円」と言ったのかわからないが、「砂糖1キロ150円」ならばあなた、今のご時世とおんなじ値段だよね。というか、この「闇市」の様子がとても興味深く、これが終盤のクライマックス、「玉音放送」を受けてのすずの「やるせない怒り」につながりもするのだと思う。

 そういう意味で、わたしはどこかでこの作品を「戦時下の(だんだんとつらくなる、だんだんと悲劇的になる)日常生活を描いた<ホームドラマ>」という視点で観ていたのだけれども、そんな中でコアになるのはすずと義姉のケイコ、その娘の晴美との関係かな、と思って観ていた。作品ではユーモアを交えながら、「ぼ~っと生きている」すずと「ちょっと性格のキツい」ケイコとの関係を笑わせながらも描いていて、さいごにはわたしなどはケイコさんのファンになったりもするのだが、すずさんにとっては「キツい小姑」で、彼女が円形脱毛症になるのもやはりケイコさんの軋轢のせいではあったのだろう。

 わたしにとって、いちばんに印象に残ったシーンは、あの「玉音放送」を家族、近所の人らとラジオの前で正座して聞いていて、その玉音放送が終了したときに、ケイコさんがまっさきに立ち上がり、「終わった終わった~!」と伸びをする場面で、それはいったい、その日の(きっと誰しもが内容もよくわからなかったであろう)玉音放送が終わったことを言っていたのか、それとも「戦争が終わった」ことを言っていたのかと、考えてしまうのだ。わたしはケイコさんは「戦争が終わった」ということを了解していたのだと思う。
 このあと、すずさんが水を汲んで家の裏を進んでいるとき、すずさんはケイコさんが壁に向かって号泣しているのを見てしまう。そしてまた、すずさんも号泣することになる。「女性から見た<終戦>」という言い方は安易だろうが、ちょくせつには戦争に関わらず、日常生活を守りながらも、それでも戦争による近親の<死>をも体験した人たちの、「どうしようもない」悲しみ、または怒りが描かれていたと思う。

 すずさんも、ただ「ぼ~っとしていた」少女から、いやおうもなく一人の「女性」へと成長する。その過程と、戦争の危機がだんだんと逼迫していく状況とのシンクロニシティーが悲しい。
 ただ、「夢見る(絵を描くのが上手な)」すずさんのイマジネーションが、どこまでリアルなことなのかわからないまま将来の旦那さんの周作さんとの出会いにつながり、家の中では「ザシキワラシ」と出会い、戦死したという兄は実は南洋の孤島でワニのお嫁さんをもらって幸せに暮らしているのではないかという「夢」が、どこかで「希望」へと変換されるようではあった。

 ここではあんまり書かないが、終盤の広島の原爆孤児を引き受けるという展開はなかった方がいいと思っている。しかし、ラストのクレジットを見ていると、「あれあれ?」ということがいろいろと描かれていて、あの壊れてしまった「艶紅」は何だったのか?とか、なんですずさんが周作さんに頼まれて持って行ったノートの表紙の片隅は破かれているのかとか、いろいろとこの作品だけでは描かれなかったことがいっぱいあるみたいだ。それはまあ、商法なのか何なのか、次の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を観なさい!ということらしい。たしかに、機会があれば観てみたいと思わざるを得ない。