ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『日本蒙昧前史』磯崎憲一郎:著

日本蒙昧前史

日本蒙昧前史

 前にも書いたけれども、磯崎憲一郎は以前よく読んでいた作家で、今でもウチの本棚には彼の『世紀の発見』と『終の住処』とかの本が残されている。でもわたしの記憶障害で、いったいどんな作風の作家だったか、ウチにある彼の本はどんな内容だったのか、まったくわからない。

 それでこの『日本蒙昧前史』という本は、そのタイトルからも普通の小説とは違う。この本は戦後に日本で起きたいくつかの事件、トピックスを題材に、多くの部分はノンフィクション・タッチで書かれた作品なのだ。
 「蒙昧」という言葉は、ウチにある古い「広辞苑(第一版)」では「人知が開けずに物事に暗いこと」とあり、つまりは「無知蒙昧」という成句としてよく使われる。ネットでの検索では「知恵や学問がなく、愚かなさま」とあり、今の世ではこっちの方がダイレクトで分かりやすいか。「前史」とはそのままに「以前の歴史」の意味もあるが、「広辞苑」には「或歴史の成因を説明するために書かれるその前の歴史」とある。
 つまりこの『日本蒙昧前史』というタイトルは、「日本という国の知恵や学問がなく、愚かなさまのその成因」を意味してもいるだろうか。
 この単行本の帯にも引用されている箇所だが、その前後をもうちょっと長く引用すると以下のようになる。

けっきょくこの国は悪くなり続けている。歴史上現れては消えた無数の国家と同様に、滅びつつあるからなのだろう、いかなる国家も、愚かで、強欲で、場当たり主義的な人間の集まりである限り、衰退し滅亡する宿命からは逃れられない、我々は滅びゆく国に生きている、そしていつでも我々は、その渦中にあるときには何が起こっているかを知らず、過ぎ去った後になって初めてその出来事の意味を知る、ならば未来ではなく過去のどこかの一点に、じつはそのときこそが儚(はかな)く短い歴史の、かりそめの頂点だったのかもしれない、奇跡のような閃光を放った瞬間も見つかるはずなのだ、

 ‥‥これはまさに今の日本、安倍政権下の日本のことを語っているわけだろうと、著者が磯崎憲一郎ではなかったとしてもわたしはこの本に興味を惹かれたことだろう。

 作品は「森永・グリコ事件」から始まって時代を前後して、戦後の日本での出来事を俯瞰していく。いくつかの事柄が書かれているが、大きなパートを占めるのは「五つ子ちゃんの誕生」、「大阪万博」そして「グアム島の元日本兵の帰還」だろうか。「元日本兵」の記述には戦中の描写も入るから、この本が「戦後日本」だけを追ったものとは言えないかもしれない。

 「五つ子の誕生」では、今なお継続するマスコミの、家族のプライバシーを無視した「傍若無人」ぶりをみせる取材が描かれる。いちおうノンフィクションっぽく書かれている作品だけれども、個人名はすべて伏せられていて、ここでも五つ子らの名前は現実とは異なる名前にされている。

 ここで時代はさかのぼって「大阪万博」のことが書かれるのだが、ここで政府はその準備段階で「一部の人間が国家の一大行事かのように騒いではいるが、管轄官庁への事前の相談もないまま、地元への利益誘導のために勝手に始め、計画してしまった、素人考えの無謀極まりない事業なのだから、蹉跌をきたそうが、損失が発生しようが、それは我々の感知するところではない」などと言っていたらしい。これはかなりの「驚き」というか、まずは「大阪万博」は国家事業ではなかったのだな。
 万博のための用地確保の仔細が書かれたあと、この作品はちょうどその半分になるところで作風が転換し、「千葉県からの少年」からの視点での「万博体験記」の様相になる。
 わたしはこの「千葉県の少年」というのは作者の磯崎氏なのではないかと思ったのだが、この少年はたしか7歳という設定で、作者の磯崎氏は万博の年にはまだ5歳なのだから合致することではない。ただやはり、このときに磯崎氏は家族で万博見物に出かけていて、たとえその記憶が残っていなくてもこの部分の設定のもとになっているのかも、とは思うのだった。

 最後のパートは、グアム島から帰還した「元日本兵」の体験、帰国後の生活(結婚もする)の記述になるのだが、ここはその「元日本兵」の人格、生き方が核として描かれ、たしかに「小説」としての完成度も高い部分だと思うし、このパートのなかに、著者は日本が「蒙昧」から抜け出す契機をみているのではないだろうか。
 ここでおどろいたのは、政府が「元日本兵」にほとんど何らの「補償」をなさなかったことで、なんと、支払われたのは「年間10万円」の年金だけだったという。ここで生活に困窮する「元日本兵」は、ある面で「心ならずも」日本全国をまわる講演会で生活費をねん出したらしい。日本はすごい国だなあ。
 「元日本兵」はその後「陶芸」に熱中するようになり、東京・銀座のデパートの画廊で個展を開催するのだが、そのときに夫婦で銀座を散策したとき、大通りに面した広い空き地に気づく。そこはこの作品のさいしょの方に書かれた、あるキャバレーの跡地なのだが、その空き地をみた妻は「ああ、ここは‥‥」と語るのだ。「老夫婦は悪霊にでも取り憑かれてしまったかのように、しばらく動くことができなかった」というのだが、この場面でこの作品が冒頭につながるというか、はたして妻はここで何を見たのだろうかと考えると、夜も眠れなくなってしまうのだ。

 改めて書けば、とても面白い作品だった。また時を置いて読み直してみたいが、そのときにはまさに蒙昧な安倍政権がもう存続していないことを望む。