ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『フランシス・ベイコン・インタヴュー』デイヴィッド・シルヴェスター:著 小林等:訳

 フランシス・ベイコンに、ベイコンの友人でもあった美術評論家のデイヴィッド・シルヴェスターがインタヴューをする。それも、1962年から1984年までの9回にわたってのインタヴューを収録する。シルヴェスターによって複数回のインタヴューを編集して連続したものとしているらしいし、当然内容の取捨選択はあるだろう。さいしょのインタヴューはラジオ放送されたというし、その後のものも映像として放映されたものも多くあるらしい。

 まず、まったくこの本の直接の内容には関係のないことから書き始めたいのだけれども、ベイコンの父は競走馬の調教師で、アイルランドのキルデア州に住んでいたと書かれていた。これはわたしの持っているCD、アイルランドのAndy IrvineとPaul Bradyとの共演盤の1曲目「Plains of Kildare」のKildareのことだろうし、そしてこの「Plains of Kildare」という曲はまさに競走馬のことを歌った曲ではある。この曲は別名「Stewball」(馬の名)としてイギリスのみならずアメリカでもよく知られたトラディショナルソングではある。
 つまりわたしは、このベイコンへのインタヴューによって、なぜかはわからないがアイルランドのキルデアという土地と競走馬というものとが、深く結びついているらしいことを確認したのである。だからどうしたというのではない「脱線」でしかないのだが。

 さて、それで本書のちゃんとした中身に進んでいこう。フランシス・ベイコンといえば、わたしなどはまずはベラスケスの肖像画にインスパイアされた「ベラスケスの教皇インノケンティウス十世の肖像に基づく習作」などを思い浮かべるわけだけれども、このインタヴューでは作家ベイコン自身からの彼の作品への詳細な解説、製作過程も読むことができるだろうか。インタヴュアーも決して難解な専門用語を使わずに対話を重ねていくのだけれども、これもインタヴュアーのデイヴィッド・シルヴェスターとフランシス・ベイコンとの「信頼関係」からくるものだろう。

 そんな「対話」の中で浮かび上がってくるのは、ベイコンの考える「リアリティー」の問題ではあるだろうか。それはもちろん「写実」としてのリアリティーではなく、素材としての絵の具の物質性を含めての「リアリティー」である。ベイコンはこのインタヴューの中で幾度となく、イラストレーション(写実性、写実的な絵、写実的な要素)を否定しつづけている。

 もう一点、ベイコンが否定しているのはポロックに代表される「抽象絵画」(抽象表現主義)なのだが、この点は非常に興味深い。それはベイコンが「偶然性」を自分の絵画に生かそうとしていることにつながるのだが、時には絵の具をキャンバスに投げ、時には酔って酩酊したままに描くこともあるという。
 ここでベイコンの語る「偶然性」は、ほとんどポロックも試みている(やっている)ことであり、なんだろう、そこまでポロックへ対抗する意識が強いのだろうかと思ってしまう。
 わたしはここで、けっきょくベイコンがヨーロッパ絵画の伝統の中で製作しているわけではないかと思うわけで、そういうところでは、彼はついに「ヨーロッパ絵画の伝統」から離脱した作品を産み出し得たポロックを否定せざるを得なかったのだろうと思う。ひとことで言えば、フランシス・ベイコンは「伝統主義者」なのではないか。

 現代美術というものは、一方で「ヨーロッパ絵画の伝統」から離脱したジャクソン・ポロックの存在から、もう一方ではそんな伝統を捨て去ったマルセル・デュシャンを出発点に持つというのがわたしの考えだけれども、けっきょくフランシス・ベイコンという人は「リアリティー」ということの中にポロック的意識を引用しながらもそのポロックを否定し、「ヨーロッパ絵画の伝統」の中に踏みとどまった人物ではないか、というのがこのインタヴュー集を読んでのわたしのいちばん大きな感想ではあった。
 インタヴューの中で、シルヴェスターはわざとのようにデュシャンの1913年の「三つの停止原器」のことを持ち出すのだけれども、ベイコンはそこに食いつきはしない。ベイコンは別のところで「(ベラスケスのように)写実主義の崖っぷちを歩いているような絵を描きたいのです」と語っているが、おそらくはこの言葉がもっとも雄弁に、ベイコンの作品のことを語っているのではないだろうかとは思う。つまり、彼は「伝統」の崖っぷちを歩きたかったのだろう。