わたしは、このドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が苦手である。さいしょに観た『プリズナーズ』の演出は多岐にわたって『羊たちの沈黙』の模倣だと思い、「ここまでやっていいものだろうか」と疑問に感じたし、しばらくしてから観た『メッセージ』は、先にテッド・チャンの原作を読んでいたからまずは「それは原作の誤解だ」と思ったし、登場した知性ある地球外生命体の造形の惨さには言葉もないほどだった。『メッセージ』公開時に、ドゥニ・ヴィルヌーヴをスタンリー・キューブリックに比する才能と持ち上げたコラムも読んだが、「どこが~」という気もちだった。
それで、無料配信でもあったことだし、この『複製された男』を観てみたのだが、やはりわたしにはこの監督は合わない。映画全体が、「この映画には<謎>があるわけだから、観客はその<謎>を解いてみたまえ」という姿勢に貫かれている。もちろん、そのような作品が存在することを否定するわけではないが、<謎>の提示というものは、このようにあからさまにやるべきものではないと思う。これでは、「映画を観る」という体験はお留守になって、ただ「この映画の謎を解く」という見方だけがあふれてしまうだろう。じっさい、ネットで検索してみると、そのような「評」にすぐにぶっつかる。つまらないことだと思う。*1
その「謎」を解いて、ここに書いてもいいのだけれども、「語るに落ちる」ということになるだけなので、やめておきます。
テッド・チャンの原作を改悪した監督なだけに、ジョゼ・サラマーゴによるこの映画の原作は、とても面白いものなのかもしれないと思ってしまう。そういうわけで、ぜひこの原作を読んでみたいものだとも思った。
*1:では、『去年マリエンバートで』のような映画はどうなんだ?ということを言う方も出てくるかとは思うのだが、『去年マリエンバートで』は「謎」自体が映画の主題であり、そこには「美学」が存在するのだ、とだけは言っておこうと思う。