ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『スウィート ヒアアフター』(1997) アトム・エゴヤン:監督

 ラッセル・バンクスという人の原作を、アトム・エゴヤン監督の脚本で映画化したもの。先日観たウディ・アレンの『マッチポイント』とは好対照というか、「そこまで観客は読まなくてはならないのか」というような過剰なところはあるとはいえ、描かれた背後の事象に考えを及ばざるを得ない作品。わたしはもちろん、『マッチポイント』のような作品よりも、こちらの作品の方がはるかに好きではある。

 カナダの小さな町で起きたスクールバスの凍り付いた川への転落事故で、多くの子供たちが亡くなった。主人公の弁護士(イアン・ホルム)が事故直後の町を訪れ、犠牲者の家族らの集団訴訟によってスクールバス運行周辺の不備を突き、勝訴しようと目論んでいる。ただ弁護士もまだ事故の実態を把握してはおらず、「事故の責任を個人に負わせない」というポリシーだけで行動する。
 まずは犠牲者の家族らが弁護士を中心に一枚岩として一致団結してもらう必要があるのだが、町民はそこまでに互いを信頼していないことも明らかになったりもする。
 事故から生還したのは運転手だったドロレスと最前列に乗っていたニコル(サラ・ポーリー)だけ(でもないのかもしれないが?)。そして、バスのあとをずっと車でついて走っていた犠牲者の父ビリーは貴重な目撃者なのだが、ニコルの父に訴訟を取り下げるように迫り、彼自身も証言を拒否するだろうと語る。この、ビリーと父との会話を影で聞いていたニコルは、それまでの弁護士の主張をくつがえす、おそらくは虚偽の証言をすることになるのだ。
 ここに、異なる時系列で弁護士とその娘との関係(ただ娘が父に電話連絡してくるだけだが)が描かれる。弁護士(離婚している)の娘は麻薬中毒で今は行方不明。さいごの電話では彼女がHIVで陽性だったことが語られる。また、弁護士が飛行機の中で出会った共同経営者の娘、弁護士の娘とも知り合いだったというアリソンという女性との出会い、会話、そして映画終盤での再会も「謎」ではある(まずさいしょの機内では「わたしの愛称はアリー」と言っているのに、ラスト近くに弁護士が彼女に再開したとき、弁護士が「アリー」と呼ぶと、「アリソンと呼んで」と言うのである。描かれなかったあいだに、この二人には何かあったのだろうか?)。

 ここには、舞台となる「小さな田舎町」内部での、決して互いに心を許し合っているわけではない、「反目」とは言わないまでの対立(ある家族は「ありゃあヒッピーだぜ」と排除されている)、そして、弁護士父娘とシンクロするような、クロエと父との関係(ほとんど近親相姦のように見える描写がある)があり、ビリーは別の犠牲者の母と不倫関係をつづけている。そして、クロエは「ハーメルンの笛吹き」の絵本を読んでおり、この「ハーメルンの笛吹き」のストーリーが、この映画のストーリーと深く関わっていることも示される(この時点でクロエは車椅子に乗っており、「ハーメルンの笛吹き」で足が不自由だったために助かった少年に自らをなぞらえている)。
 もちろんここで、町民に「わたしと共に行動してくれて裁判に勝てば報酬を得られるだろう」と語る弁護士はまさに「ハーメルンの笛吹き男」の似姿という見方もできるのだが、クロエは彼の目論見をぶち壊し、それは父との関係をも壊す行為だろうか。

 「スウィート ヒアアフター」とのタイトルは、すべてが終わったあとのクロエのモノローグで語られる言葉でもあり、字幕では「穏やかな日常」と訳されていた。クロエは「あの事件に関わったすべての人たちはもう同じ町の人間ではない」と語る。「町には独特のしきたりがあった」と語るのだが、それはつまるところ、「世間」とか「世間体」とかいうことなのだろうか? おっとり刀で現地に駆け付けた弁護士には理解しようもないことではあっただろう(この映画、田舎町の共同体を壊し、自分の娘との関係も救うことができなかったその弁護士の「敗北」の物語ではあるだろう)。
 先日、阿部謹也の『「世間」とは何か』という本を読んだばかりだが、その本に書かれた「世間」が、この映画でも描かれていたのだろうか。そしてなんと、阿部謹也氏には『ハーメルンの笛吹き男』という著作もある。どうもこの映画を観ると、その阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』を読まずにはいられない気もちになるのだった。
 書き忘れるところだったが、その撮影もすばらしかったし、また音楽もカナダの寒い冬を思わせるもので、かなり気に入った。ラストの歌はサラ・ポーリーが歌っているのだろうか?