ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『「世間」とは何か』阿部謹也:著

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

 1995年刊行の講談社現代選書。わたしはこの本を、このところの「自粛警察」の過剰さにも触発されて読み直した(過去に読んだことはあるがやはり記憶に残ってはいなかった)。
 著者はまず序章で現代(1995年当時)にみられる「世間」の姿を描き、ここでまず、特に日本にみられる「世間」とは何かということを追及するのだが、そのことは「世間のなかでの個人の位置」を問うことになり、以下の章では中世から近代への日本人の精神史を、主に文学作品を通して読み解いていく。

 序章でも身体が不自由な妻と病弱な夫とで生活保護を受けていた夫婦が、周囲からの「おらたちの税金で食ってる」という陰口に耐えられず、妻が別れ話を持ち出したために夫が妻を殺害してしまったとの事件が書かれているが、このような生活保護受給者への非難というのは今げんざいでも、ネットのヤフーニュースのコメント欄(いわゆるヤフコメ)ではあふれんばかりの状態がつづいている。ここではそんな「ヤフコメ」が「世間」の顔をして他者を攻撃していると言えるだろう。また、あの宮崎勤の父親が自殺したことにも触れられている。
 著者の阿部氏は、「世間」とは「排他的」で、「差別的」でもあるという。世間の掟というものがあり、そのひとつに「世間の名誉を汚さない」ということがあるだろうという。自己(個人)がやりたいことをやるのではなく、世間に波風を立てない生き方を選ばなければならない。わたしの考えでは、そのことが権力者におもねる生き方をし、権力に反抗しようとする人らに「排他的」、「差別的」に対するようになるわけだろう。それは「世間」というものに合わせた生き方ということなのか。たしかに今の世の中には、「偉い人は偉い」というトートロジーだけで考えることなくして権力におもねている人も多く見かけるようだ。

 第一章以降の本編では、そんな「世間」のあり方を探るというよりは、日本の歴史の中から、「世間」を逃れて「個」であることを貫いたと思える人々の精神を説いていくような内容になっている。
 まずは『万葉集』や『古今和歌集』、『今昔物語』などから日本に仏教精神が根付き、そこから「うつせみ」とも語られた「世間(よのなか)」のことが説かれるが、次に吉田兼好の『徒然草』において、兼好がいかに世のあり方の中で世間のしきたりを無視したかを読み取り、阿部氏は<兼好はわが国の歴史の中で個人の行動に焦点をあてて「世」を観察した最初の人であったと私は思う>と述べている。この吉田兼好の姿勢はのちの漱石に通じる「個人主義」の発端だろうと阿部氏は語るが、日本人の精神史のなかでこの「隠者」として生きた吉田兼好は「例外的」な存在だったようだと語る。
 親鸞の仏教思想についても解読するが、次に興味深いのは江戸時代の井原西鶴の作品から読み取れる「世間」のことで、江戸時代の町人の台頭の結果、世の中は「色」と「金」こそがものをいうことになったと分析し、そのことが西鶴の作品の中に読み取れるだろうという。これは「厭世思想に根差した享楽思想」ではないかというのだが、その結果西鶴の立場は幕藩体制社会に逆らう立場でもあり、彼の作品には<「世間」の枠を越えて生き、新しい個人の生き方を示した多くの人々が描かれている>と阿部氏は述べる。西鶴も、ある面で「隠者」的な生き方を選んだ人だという。
 そして明治以降の日本では夏目漱石の作品を読み、そこにあるのは「世間や社会に背を向けようとした視点」だったのではないかと述べ、「個」のあり方を探った人だったのだろうという。しかし、<日本で「個」のあり方を模索し自覚した人はいつまでも、結果として隠者的な暮らしを選ばざるをえなかったのである>と結ぶ。
 このあとに、永井荷風金子光晴のヨーロッパ体験と「個」の問題も語られる。

 さいごの「おわりに」において阿部氏は、<日本人はごく例外的な人を除いて個人であったことがほとんどなかった>と述べ、その中での世間との衝突を「思いのままにならない世の中」と嘆くだけだったのではないかという。阿部氏は<いいかえれば日本の個人は世間との抜きさしならない関係の中でしか自己を表現しえなかった>という。<日本では長い間社会を対象化して捉えようとする姿勢が生まれなかった。世間という言葉で、人間関係の感性的な部分がすべて表現されていたからである。><世間を対象化できない限り世間がもたらす苦しみから逃れることはできないということである。>
 阿部氏は結びに、<私は日本の社会から世間がまったくなくなってしまうとは考えていない。しかしその中で個人についてはもう少し闊達なありようを考えなければならないと思っている。>と述べている。

 読み終えて考えたのはかなり個人的なことだけれども、「わたしは「世間」とのしがらみがほとんどなしで生きているな」ということで、そういうことでは余計な想念なしに自分自身の「個」について思いめぐらすことが出来ているのではないかと思い、いくらかはそういう「自由闊達さ」を自家薬籠のものに出来ているのではないかと自負もする(自慢したり喜んでていいという問題ではないが)。まあわたしは大した、大それた存在というわけではないのだけれども、しかしやはり生きていく上で今は「隠者」的な生き方を選んでいるのではないかと思う(今はCOVID-19禍のステイホーム中だから、よけいにそのように感じるわけだろうが)。