ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『プードルの身代金』パトリシア・ハイスミス:著 岡田葉子:訳

 今までに読んだパトリシア・ハイスミスの作品では、いちばん絶望的な内容かもしれない。主人公の若い警官のクラレンスの姿が、『一九八四年』のウィンストンの姿とダブってしまう(特にそのラストシーンで)。

 クラレンスは、ニューヨークの勤務先の警察署にいるときに「飼い犬が誘拐された」と訴えてきたエドワードという男に興味を持ち、「どうせ署内ではそんな事件に真面目にかかずらわることもないだろう」と思い、自分が捜査してみようと思ってエドワードと連絡を取る。クラレンスがエドワードに興味を持ったのは、エドワードが自分のかかわることのないアッパー・ミドル層の人物に見えたこと、そのインテリジェンスを感じさせる外見に惹かれるものがあったことによる。
 エドワードは以前にルサンチマン丸出しの匿名の脅迫状を受け取っていて、犬が誘拐された後、おそらく同一の犯人から身代金を要求する手紙を受け取っていた。千ドルの身代金を払えば犬は戻してやるという文面を頼りに、身代金を指定の場所に置いたのだが、身代金は消え、犬は戻って来なかった。それで警察に訴えることにしたのだった。

 クラレンスは被害者宅を中心に不審者を捜索するのだが、予想外に早くケネス・ロワジンスキーという犯人をつきとめる。ところがここでクラレンスは拘束したケネスを署に連行せず、ケネスが「もう千ドル払えば自分の妹のところに預けてある犬は戻るだろう」というのを聞き入れ、ケネスを彼の部屋に放置したままエドワード家にそのことを伝えに行くのである。‥‥この処置に関しては読んでいてもまったく納得がいかず、「どんなバカでもそんなことはしないだろう」とは思うのだが、まあそういうことをやってしまうのだ。エドワードも知らせを聞いてクラレンスの処置を疑問に思うようだったけれども、「犬が戻るならば」と、また身代金を前と同じように払ってしまう。また身代金は消え、クラレンスがケネスの部屋に行くとケネスの姿はない(当たり前だ!)。犬はとっくに殺され、死骸は捨てられてしまっている。

 クラレンスはそれでも、エドワード家を何度か訪ねて信頼を得、そのことでちょっと有頂天になっている。クラレンスの希望は、自分の恋人のマリリンもエドワードに紹介し、もっとエドワード家(夫人のグレタとの二人暮らし)と親しくなって行くことのようだ。

 クラレンスはケネスを自分の手で捕えようと必死になるが、ケネスを捕えたのは別の警官だった。しかもケネスはその前にクラレンスを貶めようと、せしめた千ドルのうち五百ドルを焼き捨て、自分を逃がすことと引き換えにクラレンスに請求されて渡したということにするのだった(どうせ逮捕されるだろうと踏んでいたのか)。
 取り調べでそのように供述したケネスのことばにしたがって、クラレンスも恋人のマリリンも取り調べられる。しかもケネスはクラレンスのあとをつけてマリリンの存在も知り、マリリンに嫌がらせの手紙を出したりもしていた。マリリンはそういった経緯にうんざりし、クラレンスと距離を取ろうとする。

 ハイスミスの作品には珍しくも時代背景のようなものがちょこっとあらわされていて、それはクラレンスの恋人のマリリンが当時の反体制の動きに同調している女性で、いろいろな集会にも顔を出しているようだ。ほんとうは警官など好きではないらしい(この『プードルの身代金』が刊行されたのは1972年)。

 捜査の末に夜中に街角でケネスを発見したクラレンスはケネスを追い、家影で彼を持っていた拳銃の柄で殴打し、殺害してしまう。
 ケネスの死体が発見され、警察ではクラレンスの行動を怪しく思うのだった。

 クラレンスという若者(24歳という)は、警官になる前に銀行の人事の仕事に就いていたこともあり、警官という仕事を天職と思っているわけでもない。ハイスミスの描写では、警官としての使命もあるのだが、同時にエドワード家(エドワードは出版社の編集者で、妻のグレタは元コンサート・ピアニストだった)のようなハイソと知り合えたことに夢中になっているようである。エドワードはそんな一生懸命なクラレンスに(たとえ大きなへまをおかしていても)好感を持ち、自宅に招いたりもする。
 けっきょくクラレンスの告白でエドワード家もクラレンスがケネスを殺害したことを知るが、それでもクラレンスは逮捕されないだろうとクラレンスとの交際をつづけ、マリリンも招待する。マリリンもクラレンスがケネスを殺したことを知り、クラレンスと別れようとはしているのだが。

 クラレンスの造形は、ハイスミスの過去の『妻を殺したかった男』の主人公のように「ドジ」である。それはキャリア不足によるところも大きいだろうが、マリリンとの関係でもマリリンの気もちを読み切れず、ただ「別れる」ことに抵抗する。
 背景にはこの時代、ニューヨークという大都会の中で起きる一件の殺人事件の影響というような視点もあるだろうし、ケネスの持っていたルサンチマン意識と、クラレンスの持つハイソへのあこがれというのがコインの裏表のようでもある。皆がケネスのような人非人は殺されてしまっても仕方がないとは思っているわけで、エドワードはやはり目の前にケネスがいれば殴りつけたろうとは思うし、ユダヤ人として戦争前にヨーロッパで暮らしたグレタも、なぜかクラレンスに同情的である。しかしマリリンにはクラレンスを許せないところもあるしそもそもが「警官嫌い」だし、一方で警察としては殺人犯人を捕らえることが任務ではある(ここでクラレンスを追いつめる同僚の警官は、刑事になりたいとの希望を持っているようだ)。
 『妻を殺したかった男』でも、刑事による暴力的な取り調べが描かれていたけれども、ここでもクラレンスは暴力的な取り調べを受ける。こういう描写はハイスミスの警察嫌いの現れなのかもしれない。
 結末まではここに書かないけれども、やはり警察に呼び出されて取調べを受けるエドワードも、そのときに会ったクラレンスの反応からクラレンスを見限る。

 何が悪いわけではない。ただクラレンスは警官としての職務を全うしようとし、たしかに大きなミスで犯人を逃してしまう。そのミスは、ひとえにエドワードという存在、階級への「あこがれ」のようなものが生んだものだろう。クラレンスはそのために仕事での重要な優先順位を見誤ってしまった。そのことは彼の弱さを露呈させることになり、破滅への道を進むことになる。ただあわれである。


*(ちょっとばかり)翻訳に関して

 実は手元にはこの『プードルの身代金』の文庫本は2冊ある。1冊は1985年に講談社文庫で刊行された瀬木章という人の訳。もう1冊は1997年に扶桑社ミステリー文庫で刊行された岡田葉子訳のもの。
 さいしょは講談社文庫の方で読んでいたのだが、とちゅうでクラレンスの読んでいる本のことで、この訳者がケルアックもウィリアム・ボールドウィンも知らないことがわかった(記述を間違えていた)。まあ本格的な英米文学というわけではないし、こういうミステリーを翻訳する人がアメリカ文学に詳しくなくっても、ちゃんと訳してくれれば問題はない。まあ文章としては講談社文庫の方がこなれているようにも思えたし、講談社版を読んだり扶桑社版を読んだりしていた。
 そのうちにエドワード家でのパーティーの描写があり、グレタがピアノで「セコハン・ローズ」を弾いて歌ったようなことが書かれる。ここで扶桑社版はカッコして、その「セコハン・ローズ」という曲がディーン・マーティンの歌った曲だと書かれている。講談社版はただ曲名だけ。これは扶桑社版の勝ちだろう。
 さらに終盤に入ったとき、そのときは講談社版を読んでいたのだが、「こういうことはぜったいにハイスミスは書くわけがないだろう」というような、登場人物の性格を書いているところにぶつかった。おかしいと思って扶桑社版の該当ページを開くとそういう描写はなく、どうやら講談社版の翻訳者が勝手に書き加えたものだろうと思えた。これはぜったいに「翻訳者失格」で、まあ子どもの絵本だったらそういうこともあり得ないことではないと思うし、(こんなことを書いてはアレだが)どうでもいいような二流ミステリーとかなら許されることなのかもしれない。しかしいちおうパトリシア・ハイスミスはその作家性の認められた一流作家だろうし、そういうことをやってはいけない。まあこの講談社版の刊行された1985年というのは、国内ではほとんどハイスミスという作家の無視されていた時代だっただろうから、そういう二流作家扱いされたのだろうか。
(追記:)作中でクラレンスがマリリンの好きな「バーグマン」の映画に誘うところがあるのだけれども、これは講談社文庫版も扶桑社ミステリー版も共に「バーグマン」としている。しかし果たして、この「バーグマン」がストレートに取って女優のイングリット・バーグマンのことなのか、それとも同じつづりになる映画監督のイングマール・ベルイマンのことなのかわからない。しかもバーグマンも60年代後期にも映画に出演していたし、ベルイマンも新作をつくりつづけていた時期である。これはハイスミスの文章だけではわからないわけだけれども、どうもマリリンの性向からして、映画監督のベルイマンの方ではないかと思える(以前にも何かの本で、明らかにベルイマンのことを書いているのに「バーグマン」としている訳書を読んだことがある)。