ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『妻を殺したかった男』パトリシア・ハイスミス:著 佐宗鈴夫:訳

 パトリシア・ハイスミスの長編第3作。デビュー作がヒッチコックの映画化した『見知らぬ乗客』で、第2作は先日トッド・ヘインズによって映画化された『キャロル』(この作品は同性愛を扱った内容ゆえか、さいしょは出版社に拒否され、別のペンネーム、別のタイトルで別の出版社から刊行された)。そしてこの作品の翌年には第4作『太陽がいっぱい』が出されることになる。もちろんこれもアラン・ドロンの主演で映画化された作品。どの映画も「名作」といっていい有名な作品だが、この『妻を殺したかった男』もまた、名匠クロード・オータン=ララによって映画化されているようで、なんとロベール・オッセンとモーリス・ロネ(『太陽がいっぱい』にも出演!)、そしてゲルト・フレーベの競演だったようだ。観たいなあ(日本では未公開で、日本版Wikipediaクロード・オータン=ララの項には、そのフィルモグラフィーにこの映画を載せてさえいない)。さらに近年、「Like a Killer」のタイトルで再映画化され、有料だけれどもYouTubeで観られるようだ(無料で観られる予告編があって、小説でいえばその冒頭の部分をそっくり映像化しているのがわかる。きっと原作に忠実な映画化なのだろう)。

 前置きが長くなってしまった。原題の「The Blunderer」というのは「ドジな奴」とかいう意味で、実はこの原題はいささかネタバレ気味というか、そういうタイトルからの先入観で読まない方がいいと思う。邦題の「妻を殺したかった男」というのもちょっと違う感じはあって、そこは「Like a Killer」というタイトルがとてもしっくりくるようだ。

 物語は、ニューアークで古本屋を経営するキンメルという男が妻とケンカして妻を殺そうと思い、妻が一人で乗った長距離バスを車で追い、途中のバスの休憩地点でバスから降りた妻をひと気にないところに誘い出し、刺し殺すことから始まる。キンメルはアリバイをつくっており、妻殺しの嫌疑はかけられない。
 さて、実は主人公はキンメルではなく、ニューアークからさほど離れていないところで弁護士事務所に勤めているウォルターという男が主人公である。彼の妻というのが、よくハイスミスが描くところの、エキセントリックでいや~な女なわけで、ハイスミスミソジニー指向がここにもちゃんと出て来る。ウォルターは妻を強く愛しているのだけれども、妻のせいで友だちは離れて行くし、ウォルターがパーティーでちょっと女性と会話しただけで「あの女と浮気してるんでしょ」と責められてうんざりしている。ウォルターはけっこう強く妻を愛しているのだが、意を決して離婚話を持ち出すと妻は自殺未遂する。妻は妻でやはり強くウォルターを愛しているのだ。
 しかしやはりウォルターは離婚調停話を進めるつもりでいて、妻に再び離婚話を持ち出そうとしている。そんなときに新聞でキンメルの妻の殺人事件の記事を読む。ウォルターはさすがに弁護士のカンというのか、「これは旦那のキンメルの犯行だろう」と見当をつけるのだ(当たってる。名推理!)。そして、じっさいにキンメルに会ってみたいと思い、キンメルの本屋に行くのだ。ウォルターはキンメルの容姿を見、話をしてみた感覚から、やはりこの男が妻を殺したのだと確信する。来店の意図を取りつくろうため、ウォルターの本名で本を注文する。
 またもや離婚話を持ち出されたウォルターの妻は、入院していた田舎の母が危篤との報を受け、長距離バスで田舎に行くことにする。そこでウォルターは「これはキンメルのケースと同じだ」と、なんと妻の乗ったバスを追跡するのだ。
 バスはやはりキンメルのケースと同じく休憩所でしばらく休憩するのだが、ちょっと遅れて到着したウォルターは妻を探すも見当たらない。あたりにいた人に「こういう女性はいないか」と聞いたりする。じっさいウォルターはキンメルの模倣犯として妻を見つけて殺すつもりがあったのか、ただの芝居としてキンメルの行為をシュミレートするつもりだったのかわからない(おそらく殺す度胸はなかっただろうが)。
 ウォルターは帰宅するが、そこに「妻の死体が見つかった」との連絡がある。休憩所の近くの断崖の下に倒れていたわけだが、おそらくは自殺と思われるとはいえ、誰かに突き落とされた可能性がないとはいえない。しかもウォルターは休憩所でいろいろな人に姿を見られているのだ。
 一方キンメルの方も、ウォルターの妻の死亡事件の新聞記事を読み、店を訪れたウォルターという男のことを憶えていて、「彼はなぜわたしの店に来たのだ?」と疑惑を抱く。
 ここで第三の男、まずはウォルターを取り調べるコービーというちょっとサディスティックな刑事が登場する。コービーはウォルターの家でウォルターに話を聞くのだが、そこでキンメルの妻が殺された新聞記事の切り抜きを見つけてしまうのだ。ピンと来たコービーは、キンメルをも調査を始め、キンメルの店に行く。

 ストーリーはほとんどがウォルターの視点で語られ、時にキンメルからの視点が挿入されるが、刑事コービーが何を考えているのかはわからない。ここがちょっとしたミソで、おそらくすべてはコービーの思惑通りに進んで行くようだ。
 キンメルは冷静なインテリタイプなのだが、やはり人を殺した人間というか、キレると暴力的になるようで、そのことをコービーは読んでいて、彼を暴力的に追い詰めるのだ(今ならこんな容疑者にとんでもない暴力をはたらく刑事こそ免職され、刑務所に入れられるだろうが)。
 さて、主人公のウォルターはというと、彼はタイトル通りに「ドジな奴」というか、間抜け、空気読めない、どうしようもない男である(仕事は出来るのだが)。

 長々とストーリーの前半を書いてしまったが、このあとストーリーは(主にウォルターのドジによって)二転三転する。つまりはこの小説、延々と繰り返されるウォルターの「ドジ」に呆れる作品なのだ。正直に話せばいいときに余計なウソをつき、やってはいけない行動をする。実はガールフレンドもできるのだが、彼女にも「事件」のことで最悪の対応をする。最悪のタイミングで「本当のこと」を告白する。この後半はもう、ドジなウォルターのドツボへのはまりようがどんどんエスカレートして、大変なことになってしまう。ネタバレしてしまえば、エンディングまで彼はドジなのだ(かわいそう)。

 わたしは原題の意味を知らずに読み進めていたため、途中でウォルターのことを「こいつ、バカなんじゃないの?」と思い始め、それが「いや、やっぱりバカだ」、それどころか「大バカだ!」と思いながら読むことになる。ページをめくるごとに彼の言動に呆れ、呆れかえり、苦笑したり大笑いしたくなったり、あまりの「哀れさ」に同情したりもする。また、「妻を殺す」という妄想に囚われる主人公というのでは、前に読んだ『殺人者の烙印』とも共通した要素があるのだが、『殺人者の烙印』の主人公はこんなにドジではなかった。

 ふむ、わたしはここまでに愚かな主人公の登場する小説なり映画なりというものを、かつて読んだり観たりしたことはないと思う。ある面でこの小説はコミック(喜劇)であり、ちがう視点からみればトラジディ(悲劇)である。

 もちろんサスペンスらしいストーリーの展開もあるのだけれども、そのストーリーと絡んだウォルターのドジぶりこそが主題であろう。ここにはパトリシア・ハイスミスという作家の、世界を斜めに見る視点、正義などというものは実は危ういものでしかないという視点があり、底意地わるく人の弱さというものを残酷なぐらいにあらわにして行く描写など、サスペンスだとかミステリーだとかいうジャンル分けを無効にしてしまう迫力がある。
 わたしはそういうハイスミスの作品に惹かれ、こういう時勢にこういう作品にふれることは、逆説的にちょっとした「うさ晴らし」になる気がした。この「Stay Home」のあいだ、もっとハイスミスを読みつづけよう(入院中に読んだ『水の墓碑銘』の感想も、忘れないうちに書きます)。