ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『羊たちの沈黙』(1991) トマス・ハリス:原作 ジョナサン・デミ:監督

 これはまさに「エポック・メイキング」な映画作品で、これ以降のミステリー映画に非常に大きな影響を与えたと思う。今でもこの映画の模倣のような映画に出会ってしまったりするが、この作品を越えるようなサスペンス・ミステリーにはいまだ出会っていない気がする(強いて言えば、黒沢清監督の『CURE』を挙げたいが)。
 わたしはよく、「もしもヒッチコックがこの映画を観たらどんな感想を語るだろう」と思うものだけれども、ここにはヒッチコックの『サイコ』でスクリーンに登場した「ノーマン・ベイツ」というサイコパスの延長系が描かれているということでもあるし、さまざまな「犯罪者」を描いたヒッチコックは、この作品の「レクター博士」という、それまでの類型をはるかに飛び越えた、いわば「スーパースター」的な悪役をどう思うだろうかということ、そして、この作品のプロットの引きずり方をミステリー監督としてどう思うだろうか、ということを聞いてみたい。

 この作品の主なるプロットは、つまりはバッファロー・ビルと呼ばれる連続猟奇殺人魔をFBIの訓練生のクラリススターリング(ジョディ・フォスター)が突きとめるというストーリーなのだけれども、そこでクラリスは上司(ということでいいのか?)のクロフォード(スコット・グレン)からの指示で、すでに8年前に逮捕され牢獄に監禁されているハンニバル・レクターアンソニー・ホプキンス)のもとに赴き、参考意見を聞き出そうとする展開があり、もうひとつ、そのレクターの「脱獄」の顛末のストーリーが加わる。言ってみれば、そういう三つの展開が同時に進行し、これを見事に収束させてみせるという演出の妙がある。
 これ、わたしも当時原作を読んだのだけれども、たしかに原作にもその「三つの要素」は含まれてはいる。しかし原作では上・下巻の大部のものを、要領よく、多くは映像の力で、2時間以内の枠に収めていることは驚異的だと思う。

 この映画の面白さとしていちばんに感じるのは、つまり、登場人物らはひとつには「頭脳の明晰さ」で際立っているがゆえにこの作品のプロットをけん引していくのだけれども(その中で「愚か者」の果たす役割もあるのだが)、実はメインの話であるクラリスレクター博士との関係では、「情」というもの、個人の深層心理こそを「人と人との繋がり」の最重要要素と捉えているところにあると思う。そこに、『羊たちの沈黙』というタイトルが生命を得る。
 それともうひとつ、本来の事件の主役、犯人たる「バッファロー・ビル」の隠れ処の描写のカルト性というか、まるで「ヘンリー・ダーガーが『非現実の王国』を描き進めた部屋もこんなではなかっただろうか?」というような卓越した美術と撮影がある。
 このことはもちろん、ハンニバル・レクターが「脱獄」したときの、古いビルの5階の「檻」でのあまりに<劇場的>な照明と、そこに宙づりにされている犠牲者のシルエットの<美しさ>というものがあり、このシークエンスだけでも、この映画は不滅なのだろうと思う。
 ついでに今言っておけば、本来レクターの監禁されていた牢獄は「石牢」というヴィジュアルの、「これはいつの時代だろう?」というような、「現代」とはほど遠い美術設定だし、もちろん、レクターの脱獄する建物もまた、「現代的」とはいいがたいわけで、ここではエレヴェーターの旧式、アナログな「指針」の動きこそが「ドラマ」を演出するわけでもある。

 もちろん、ロジカルに観て行けば、「なんだ、けっきょくレクターは犯人をさいしょから実際に知っていたわけか」とか、「クラリスの捜査過程が直線的すぎる」とかあるわけだけれども、そもそもの主題は、これは「クラリスとレクターとの<禁じられた愛>」といえるわけで、その圧倒的な主題の前に、多少のことはどーでもいいのである。ただ、この二人のあいだに割って入ろうとするクロフォードがちょっと弱いというか、どうもラストの式典でのクロフォードとクラリススターリングとの「握手」が、いまいちインパクトがなかった気がする。いや、それ以上に、レクターとクラリスの対峙するシーン、特にレクター博士へのあまりに見事なライティング(照明)があるわけで、これはほとんど、『2001年宇宙の旅』で、コンピューターのHALをとらえるカメラに匹敵するものではないかと思う。
 そんな風にラストの式典にケチをつけても、ラストのラスト、バハマでのレクター博士を追うワンシーンワンカットのクレーン撮影のすばらしさがこの作品を締めるわけで、これはラストのクレジットとかぶるのだけれども、まあ映画のラストシーンとしてはいちばん見事なのではないだろうか。

 まあやはり、自分でDVDとかBlu-rayとかを所有して、観たいときに「また観よう」というような作品ではないだろうかと思う(つまり、観るたびに新しい<発見>があるだろう)。