ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『家族を想うとき』ケン・ローチ:監督

       f:id:crosstalk:20200113114307j:plain:w400

 わたしにはケン・ローチ監督の作品を観た記憶がない。キャリアの長い監督だから何かしら観ているはずだけれども、記憶が残っていない。とにかくは思いっきりリベラルな視点からの社会派ドラマを撮る監督のはず。

 この作品の原題は「Sorry, We Missed You」というものだが、はたしてそのような英語はどのような状況で語られるものなのか、まずは興味がわく。
 タイトルにあるようにこの映画は父母と一男一女の「ある家族」の物語ではあるのだけれども、父のリッキーはより高収入を目指して、宅配便の配達ドライヴァーとして、保証のない単独契約をする。配送用のバンを購入するためにそれまで妻のアビーが仕事で使っていた車も売却する。アビーは在宅介護を請け負っているが、複数の介護先を周るのにバスなどを使わざるを得なくなる。

 つまり、リッキーはある意味で「強い」ところがあり、自分は単独契約をこなしてやって行けるだろうと思っているし、妻のアビーも何とか夫に協力する。しかし、一日14時間、週6日の労働のひずみは、息子と娘にこそ、とりわけ思春期真っ盛りの息子にこそあらわれるだろう。そして、予期せざる事件に巻き込まれることも、「自己責任」として対処せざるを得なくなる。
 家族の幸福を願うことが家族の気もちを分断してしまうし、それでもなお家族を守らなければならない。

 タイトルの「Sorry, We Missed You」というのは、日本でいえば宅配便の「ご不在連絡票」なわけで、つまり「いらっしゃらなくて残念でした」ということなのだけれども、映画の終盤に父のリッキーが、この「ご不在連絡票」に家族へのメッセージを書き残そうとするわけだ。ここではリッキーは家族に「Sorry, I Missed You」というメッセージを残したことになるわけで、痛烈だ。

 リッキーもアビーも子供たちの情況に無関心だったわけではないのだが、長男には「大学に進学してもいいんだよ」ぐらいのことしか言えず、いったい長男がどんなことに関心を持っていたのかを知らずにいたようだ。長男が問題を起こしたあと、長男のスクラップブックを見て、「そういうことに才能があったのか!」と気づく両親は、それでも「いい家族ではないか」と思わせられる。こういうところは自分の親のことを思っても、どこかうらやましい思いがする(母はわかってくれた)。

 さて、今の日本は台風で被害を受けても「自己責任」と言われてしまうような、強烈なまでに野蛮な国になり果てようとしているが、そうやって「自己責任」という言葉を他人に吐きつける人たちは、この映画をみてもやはり「それは自己責任だろうが?」と言うのだろうか? それではそういう人たちにとって、この映画はまったく「無価値」ではあろう。