ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『永遠の門 ゴッホの見た未来』 ジュリアン・シュナーベル:脚本・編集・監督

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 これは、ゴッホの生涯のさいごの3年ほどにスポットを当ててつくられた作品だと思う。まずはパリのカフェでの「グループ展」との名目での展示から始まるが、けっきょくゴッホの作品だけの「個展」状態で、カフェの店主から「作品を撤去しろ」と言われるのだ。しかし、この時点でゴッホはすでに自らの画風を完成させている。この時点ですでにゴッホは「ゴッホ」である。
 この映画は、ゴッホというアーティストが自己を発見するまでというような映画ではない。もうすでに、彼は「自分が<ゴッホ>である」ことを見つけてしまっている。

 例えば、うまく行かなかったゴーギャンとの共同生活も、そこまでもエキセントリックに映像化するわけでなく、「こんなことになってしまった」という<事後説明>。
 この映画は、「わたしは<ゴッホ>なのである!」ということを映像で伝えようとする試みというのか、観るものに追体験を迫るようなところがある。ある意味で異様にファナティックな作品なわけだけれども、そのファナティシズムを支えるのはひとつには<ゴッホ>を演じるウィレム・デフォーの演技であり、さらに、まるで<ゴッホ>の魂の分身のように野を駆け空を飛ぶような、ブノワ・ドゥロームの撮影である。
 このブノワ・ドゥロームという撮影監督、かつてはトラン・アン・ユン監督の『青いパパイヤの香り』でも撮影監督を担当された方なのだった。

 何を語ればこの作品のことを伝えられるのかわからないけれども、ちょうど昨日読み終えた『脳のなかの幽霊』という本にちょうど、「側頭葉てんかん」を患った人は、例えば宗教的にファナティックな立場をとることがあるということを読んでいたばかりで、キリストは「側頭葉てんかん」だったのではないか?というのを読んだばかりだったので、一方でやはり「側頭葉てんかん」だったのではないか?といわれるファン・ゴッホの、そういう生き方を提示されてしまうと(この作品の中でゴッホがキリストについて言及する場面もある)、まあやはり「凡人」でしかなかった「側頭葉てんかん」患者としては、わかるようなわからないような、というところではある。

 けっきょく、つまりは「あっ!やられたな~!」って感じで、脚本にはジャン・クロード=カリエールも協力してるし、音楽はいいし、つまり「美術作家はその時代の先を見据えて表現しているのだ」という、アーティスト礼賛映画なんだけれども、ここまでやられてしまったら、もうその世界に呑み込まれるしかありません。