ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『駅馬車』(1939) ジョン・フォード:監督

 この作品は過去にも観た記憶はなかった。ちょうど、わたしが映画に熱中した時期は、蓮實重彦の「ジョン・フォード論(序章)」によれば、ジョン・フォード評価の低かった時期でもあったのだろう。あの頃に「ジョン・フォードを観よう」という声はたしかになかった。

 アメリカ先住民(インディアン)はその頃にはもう「居住地(リザヴェーション)」に押し込められていたようだけれども、そんな中、酋長ジェロニモに率いられたアパッチ族が居住地から出て人々を襲っているらしい。6人乗りの「駅馬車」がそういう状況下に西部の平原を横断しようとする。乗客はほとんどアル中の医師のブーン、騎兵隊の指揮官の夫に会いに行くという貴婦人然としたマロリー夫人、酒の商人のピーコック、そして町から追い出されるらしい、おそらくは娼婦らしいダラスの3人だったが、賭博師のハットフィールドがマロリー夫人の護衛役を買って出て乗り込む(雰囲気としては下心があるようにも見える)。あとは御者と、保安官とが馬車の上に乗って同行する。
 出発してすぐに銀行の責任者のヘンリーが乗って来るが、どうやら彼は銀行に届けられた大金を持ち逃げしようとしている気配。さらに平原の手前で馬車はリンゴ・キッドに出会う。彼は監獄を脱獄し、馬車の行き先にいる、兄弟を殺したプラマー兄弟にかたき討ちに行くのだ。馬車に乗っていた保安官にいちおうは逮捕され、馬車に同乗する。8人の旅である。

 この、6人乗りの駅馬車内の閉鎖空間と、その外の広大な平原(ジョン・フォードお気に入りの「モニュメント・バレー」である)との対比がまずは見事であろうか。
 馬車が中継地に立ち寄るたびに情況が変化するというか、情況がわかって来たりもするのだけれども、それぞれの乗客の描きわけがいい。リンゴ・キッドは皆から冷たくあしらわれるダラスのことを「女性を尊重しろ」と言い、皆をたしなめたりもする。マロリー夫人は途中、赤ちゃんを出産したりもする。
 「西部劇」というと「男の闘いのドラマ」という印象があるが、そんなドラマの中にちゃんと女性を配置して、有無を言わせず「女性の権利」を打ち出しているあたりにも、この作品の突出した普遍性、現代性を感じる。

 ついにアパッチ族が来襲する。その一撃の「矢」による「奴らが来たぞ!」というメッセージが強い。そのあとの跳躍する「馬」の撮影の見事さ、リンゴ・キッドの活躍(これはスタントマンのヤキマ・カヌートという人物の功績らしい)。
 騎兵隊の到着でアパッチ族を撃退した駅馬車は最終目的地に到着し、リンゴは保安官の許しを得て宿敵のプラマー兄弟との決闘に向かうが、その前にダラスに「オレの牧場で(脱獄の罪で監獄行きする)オレが帰るのを待て」というのだね。

 ひとつこの映画で面白いのは、その肝心のクライマックスの「決闘シーン」がないこと。決闘を終えたプラマー兄弟の一人が居酒屋のドアを開けて入ってきて、「え?リンゴ・キッドは敗れたのか?」と思わせたところで、彼はドッと倒れるのである。
 こういう「肝心のところを見せない」というのは、例えば駅馬車の中で「もはやこれまで」と思ったハットフィールドがマロリー夫人の頭に銃を向けたとき、その銃を持った手が崩れ落ちるところでもあらわされただろうか。

 わたしには、この作品でブレイクしたリンゴ・キッド役のジョン・ウェインの良さというのはよくわからないのだけれども、武骨なガンマンの中に優しさを持つ男という設定はよくわかった。
 娼婦のダラスを演じたのはクレア・トレヴァーという女優さんらしいが、当初この役にはマレーネ・ディートリヒも想定されていたらしい。彼女が「娼婦」であるということはセリフとして語られることはないのだけれども、出発地で彼女を送り出す地元の女性たちの表情、そして彼女が馬車に乗り込もうとするときにチラリと見える彼女の脚、そのあとの町の男たちのにやついた表情のカットで、だいたいのことはわかることになっている。この場面は「お見事」ではあります。
 アル中気味の医師(トーマス・ミッチェル)や小心者の酒のセールスマン(ドナルド・ミーク)も味わい深いが、銀行の金を横領、持ち逃げしようとする男の印象だけは正直、イマイチなところがあるとは思った。