ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ロリータ、ロリータ、ロリータ』若島正:著

ロリータ、ロリータ、ロリータ

ロリータ、ロリータ、ロリータ

 ナボコフの『ロリータ』を翻訳した若島正氏による『ロリータ』論、というか、『ロリータ』攻略本というか。
 この本は決して「『ロリータ』はどのような本か」、ということを、普通にそのストーリー展開から論じたり解説したりするものではなく、「『ロリータ』という本、その細部にどのようにアプローチをとるか」という種類の「参考書」といえるだろうか。そして、この本に書かれたさまざまなアプローチは、「さすが翻訳者ならでは」という精読ぶり、その面白さに満ちている。そして読みながら海外のナボコフ研究者らは『ロリータ』をどのように読んでいるのかという情報を知ることも出来る。

 序、12の章、5つのコラム、そして「あとがき『ロリータ、ロリータ、ロリータ』と題する書物」(それと参考文献一覧)からなる本書は、「そんな細部にこだわるのか」というようなアプローチに満ちているけれども、そのことを若島氏はその「序」の「霜の針、パンの屑」において、トルストイが『アンナ・カレーニナ』の中に書いたちょっとした細部を、ナボコフがみごとに解き明かしていること、そして批評家のアーヴィング・ハウが、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』の中に書かれている「上着についているパン屑」の描写の意味を読み取れる読者こそが「良い読者なのだ」と語ったこととを引き合いに出し、アーヴィング・ハウの言葉「本そのものよりも、こうした瞬間、こうした余分な細部にこそ、わたしたちは記憶の指標として何度も立ち返ることになる」を引用する。若島氏は<『ロリータ』というテクストの表面に付着している「霜の針」や「パン屑」を、(‥‥)愛おしい手つきで、(‥‥)崩れてしまわないように、できるかぎりそっと拾い上げたい。そしてそれを、(‥‥)誰にでもわかる言葉で語ってみたい。>と語る。その成果こそがこの書物。

 まず最初の章「ロリータとの出会い」では、ハンバート・ハンバートがいちばん最初にロリータに出会ったときのことを、ナボコフの『ロリータ』本編、キューブリックによる映画、そのキューブリックの映画のためにナボコフが書いた脚本、そしてエイドリアン・ラインによる映画との4つのヴァージョンで読み、観て行く。
 わたしもこのあたり、文庫の『ロリータ』に、若島氏が訳注として冒頭でハンバート・ハンバートが語る「片方だけの靴下」の、「もう片方はどこにあるでしょう?」というクイズ(?)のことは憶えていたし、その答えもわかっていたりするのだけれども、それぞれのヴァージョンの中に「ロリータの痕跡」を探していく筆致は、まるで推理小説の<謎>を解き明かしていくようだ。
 ‥‥って、こんな調子て全章のことを書いていくといつまでも終わらないので省くけれども、ナボコフがいかに『ロリータ』の時代のアメリカ大衆文化を調べ、『ロリータ』の中に盛り込んでいったか、などという解き明かしなど、改めてナボコフの執念みたいなことを感じる(だって、ナボコフアメリカのポピュラー音楽なんかまるで興味がないくせに、ジュークボックスから歌手の名前とか書き写して小説の中に活かしていたりするし)。
 そしてナボコフが仕掛けた「二十露出」の話や、「C」という文字への執着など、とにかくは面白いし、書き出しの有名な「ロリータ、我が命の光(Lolita,light of my life)」の「命(life)」とは何を意味するのか?などという分析には驚いてしまう。

 最終章「ロリータ、ロリータ、ロリータ」は、そんな<細部>からちょっと離れて、かなり本格的な「小説としての『ロリータ』論」になっていて読みごたえがある。そして「全体像のつかめない小説」としての『ロリータ』の難しさが語られる。どうも、ひとつの読み方の裏側には、「いや、逆かもしれないな」という「別の読み方」がつきまとう。そんな小説であり、そこにまたこの『ロリータ』の魅力があるのだろう。単に「サイコパス」の手記として読まれるべきでないのはもちろん、小説という世界の<奥深さ>を知らしめてくれる「小説」ということだろう。むむむ、何度でも『ロリータ』そのものを読まなくっちゃいけない。