ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『淡い焔』ウラジーミル・ナボコフ:著 森慎一郎:訳

淡い焔

淡い焔

 これは一種<破格>の奇書というか、想定外の構成の<小説>。まずジョン・シェイドという人物の書いた「淡い焔」という999行からなる詩(英雄詩体二行連句という伝統的な形式に則っている)があり、その詩にチャールズ・キンボートという人物が「まえがき」と「注釈」をつける、という形をとっていて、つまりはこの本がそっくりそのまま、ジョン・シェイド著の『淡い焔』(チャールズ・キンボート注解)という(架空の)書物のかたちをとっている。書かれたのは1959年ということになっており、著名な文学者だったという設定のジョン・シェイドは、この詩を書き終えた7月21日に亡くなったという設定。つまりこの<小説>まるごとで、自立独立した一冊の書物(注釈付き詩集)となっている。
 しかし、本編の<詩>が60ページぐらいなのに対し、その注釈は270ページもの分量がある。まあ世の中にはそのような、本編をはるかに上回る分量の注釈、注解が付加される書物もあり得るわけだから(うちにもそういう詩集があったような*1)、そのこと自体はそこまでに奇異ではない。
 それでも、まずはそのキンボートによる「まえがき」を読み始めると、唐突に「目下の私の住まいの真向かいには大変喧しい遊園地がある」などというセンテンスが出てくる。変である(まあわたしはそんな「変な小説」だということは知っていて読んでいるのだが)。

 それでとにかくはまず、そのジョン・シェイドの詩「淡い焔」を読む。これが詩として「秀作」なのかどうかはわからないが、そこにはジョン・シェイドという人物の<世界>との精神の交流が語られ、また、彼の娘の<不幸>といいう自伝的な事柄も書かれている。
 次にチャールズ・キンボートの「注釈」を読む。キンボートは生前のジョン・シェイドとは親しくしていたらしいが、ジョンの死後その未亡人から疎まれている。ジョンの詩の語句へのまっとうな注釈もあるのだが、なぜかキンボートの母国であるという「ゼンブラ」という国、その国王のこと、その国での革命後の国王の国外脱出の話、国外に出た国王を狙う「殺し屋」の話が、詩とは無関係に書かれて行く。奇怪である。
 キンボート(ゼンブラからアメリカに渡ったあと、シェイド家のすぐそばに住むことになる)とジョン・シェイドとの交友も注釈の中で語られ、そのうちにジョンが「淡い焔」を書く過程と、キンボードの語る国王周辺の動きとの時制が一致してくる。そして「殺し屋」がやって来る‥‥。

 (ちょっとネタバレになってしまうが)読んでいると、実はキンボードという人間自身がつまりは亡命した「前ゼンブラ国王」その人だということがわかってくる。そして彼は「ゼンブラ」の話を熱心にジョン・シェイドに語りつづけ、ジョンがその「淡い焔」の詩の中に、自分が語ったゼンブラの物語を織り込んでくれていたことを期待しているのだ。そして、ジョンの詩を無理矢理にゼンブラ譚にこじつけようともする。
 ある面で、これはジョン・シェイドの書いた「淡い焔」という詩を、<狂った>キンボードという人物が<浸食>する物語のように思える。それは非常にユニークな、ジョン・シェイドとチャールズ・キンボートとの<共作>のようにも思える(まあどちらの人物もナボコフの<創作>なわけだが)。

 この原作は過去に富士川義之氏によって『青白い炎』のタイトルで翻訳され、岩波文庫にもなっているのだが(わたしは初出の「筑摩世界文学大系」で読んでいるのだが、まるで記憶に残っていない)、話では(真相は知らないが)けっこうな誤訳も含まれていたということで、そのことがこの森慎一郎氏による「新訳」の刊行された背景にあるのではないかと思う。
 ただ、この本には(キンボートが作成したと思われる)「索引」が巻末に載せられていて、これがまた読んでいるといろいろとあるのだけれども、旧訳ではこれが「あいうえお」順の配列になっていたのが、この新訳では(原著通りに)アルファベット順になっていて、それがある項目について「それでこそ!」ということにはなっている。

 ナボコフの作品としては、『絶望』から『ロリータ』へと至る、主人公が<狂人>という系譜の作品の、ある意味完成形ではないかとも思えるのだけれども(『アーダ』もまたこの形式の発展形といえるかもしれないが)、つまりこの<小説>のジョン・シェイドの<詩>と、チャールズ・キンボートの<注釈>との相関関係から、ジョン・シェイドとキンボートとはじっさいにはどのような交流があったのか、またキンボートは周囲の社会の中でどのようにみられていたのか、などを組み立て直すことを強いられるところがある。キンボートははたしてほんとうに「ゼンブラ国王」だったのか? ある読み方ではジョン・シェイドという人物さえもキンボートの妄想の産物ではないのかという問題提起もあったらしいのだが(いちおう今は否定されているらしいが)、そういう読み方が可能そうだというのが、この作品の奥深さだろうか。まあジョン・シェイドという人物はナボコフと歳も近いし、文学者としてのあり方などナボコフ自身を思わせられるところが大きい。しかしキンボートの側にしても、祖国から脱出してアメリカに渡って来たという経歴、体験はナボコフに共通するものだろうし、キンボートの持つ祖国への郷愁はナボコフがロシアに感じているところの感情かもしれない。そういう意味で、ナボコフの中の<精神>が二人の登場人物に分離して取っ組み合い、この書物をつくり上げているようにも思えたりする。作品中にはすぐには気づかないいろいろな仕掛けがあるようで、ナボコフには「再読しろ!」と言われているのだ。

 作品の内容から離れて、わたしが読んでいて思ったことをふたつほど。まずはわたしの大好きなナボコフの作品『プニン』。その結末で「その後のプニン助教授」のことが気になって仕方がなかったわけだけれども、この『淡い焔』の中で、無事にジョン・シェイドらの教える大学のロシア語学科の「教授」に就任しておられるようだった。うれしい(相変わらず<変人>扱いされているようだけれども)。
 そして、この小説でキンボートの母国とされている「ゼンブラ(Zembla)」という架空の国、読んでいると「北の果ての国」ということで、地形的にはデンマークみたいな、位置的にはスカンジナビア半島のどこか、もしくはもっと東の北極海に面したどこか、みたいなところにあるようなのだが(いや、そもそも読者は書き手の<狂人>キンボートの記述でしかこの小説内の世界を知ることができないわけで、「ゼンブラ」という国からしてキンボートの<妄想>なのかもしれないのだが)、どうもわたしは「Zembla」と聞くと、Talking Headsの名曲「I Zimbra」を思い浮かべてしまうわけで、どうしてもゼンブラをアフリカのどこかの国と想像してしまい、キンボートのことを黒褐色の肌の人物というイメージを、なかなかぬぐうことが出来なかったのだった。
 

*1:例えば入沢康夫の『わが出雲・わが鎮魂』という作品には、「自注」として本編の倍以上の<注>が付与されている。