ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2019-05-28(Tue)

 朝起きたら、外で雨だれの音が聞こえた。予報通りに昨夜から雨になっていたようだ。しばらく夏のような暑さがつづいていたので、この雨でクールダウンという感じでちょうどいい。
 とはいいながらも、何もやらない一日だったことに変わりはなく、「怠惰」というのはほとんどわたしのミドルネームになりつつある。

 この頃はTwitterを閲覧することでニュースの代わりに「今起きていること」を知るようなパターンになっている。もう今の報道(特にNHK)はまったく信頼するに値しないというか、「今の日本がほんとうはどのようになっているのか」を知るにはTwitterが力になる。そんな社会的な最新ニュースだけでなく、新刊本、新しい展覧会、新しく公開される映画などの情報も得ることができる(もちろんこのことはFacebookとかでも力になってくれるが)。それ以外にも時に、世界観のようなものを教えられるようなTweetに出会うこともあり、ちょっと世界が豊かになったように思えることもある。

 まあ「世界が豊かになった」かどうかはわからないが、今日は「好き」と「愛してる」ということの違いについて書かれているのを読んだ。
 これはブッダの教えらしいのだが、「ある人が<花が好き>と言うとき、その人はただ花を摘むだろう。しかし花を愛している人は花の世話をして、毎日水をやるだろう」という。
 そういうことだと思う。これはわたしが、ただ「ネコが好き」という一部の人に感じていたことで、彼は家にネコがいればいいので、エサをやってあとは放置同然にする。「ネコが好きだ」ということはアピールするけれども、それはほとんど「わたしはネコが好きだという種類の人間だ」と言っているに過ぎない。それはただ、「そういう人間」と見られたいだけのことだ。一種ナンパの小道具というか。
 だからその飼っているネコは放ったらかしで外泊旅行はするし、ネコの具合が悪くなっても病院に診せない。あげく、具合が悪化したネコを「もうこのネコはここまで」と見切り、「これ以上苦しませないため」とかの言い訳をつけて、看護の労を避けるためにそのネコを殺してしまうのだ。信じられないことだが、こういう飼い主は実在する。そしてそのネコを殺害しておきながら、「わたしの愛猫が死んでしまった」と嘆いてみせるのだ。信じられるだろうか? こういう人物が「わたしはネコが好き」といい、自分のSNSでのアイコンにそんな亡くなったネコの写真をいつまでも使うし、自分が殺したネコの死んだあとの写真を公開したりもする。
 こういう人物が「ネコが好き」などと語ることも許せない気もするが、今の世の中は「ネコ」ブーム。ほんとうにネコを愛してもいない人らがネコを飼い始め、例えば自分が結婚するとか引っ越しするとかの事情で、かんたんに飼っていたネコを捨ててしまうのだ。
 飼い主にその健康を留意されることもなく病気になり、まだ治療のチャンスがあるかもしれないのに「もはやこれまで」とその飼い主に殺されるネコ。例え致命的な疾病で生きながらえることが出来なくなったネコも、その臨終まで飼い主が寄り添って看取ってくれるわけでもなく死んでいくネコ。これらのネコは「ネコ」ブームの陰で、まるで愛されることなく死んでいく。なんて悲しいことだろう。

 ネコ、特に今の世界に人に飼われる「イエネコ」という存在は、「愛されるために」遣わされた生き物である。

 わたしは残念ながら人間の女性を愛することが苦手な存在で、そういうかたちでこれからも人を愛することはできない、情けない存在ではあるだろうけれども、ネコのこと、ウチのニェネントのことは強く愛している。それは経済的な理由で一日ずっとニェネントといっしょにいることはできないでいるし、けっこうな比率で自分のエゴで家を留守にすることも多い。それでもわたしはニェネントを愛している。ニェネントを守りたいと思っている。この広い世界で、「ニェネント」という存在をダイレクトに知っているのはわたししかいない。だからわたしはニェネントを助け、いつまでも(できる限り)いっしょに生きて行きたいのである。