ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『クリムト展 ウィーンと日本 1900』@上野・東京都美術館

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 クリムトの作品は美しい。クリムトの父は金工師、彫板師であり、クリムトの弟のエルンストも工芸彫刻師となり、クリムト自身もウィーンの工芸学校で学んだところから、彼の作品には工芸的な要素と絵画的要素が融合され、その後期には<金>という<色彩>を巧みに使うことによって、その卓越したデッサン力を活かした、美しい工芸的な作品を生みだした。クリムトの作品の多くは<女性>を描いたもので、女性の<エロス>を描いた作家として評価されている。一方でその風景画もまた、魅力的な世界を描き出していると思う。クリムトは、オーストリアを代表する画家との評価を受けている。
 しかし、クリムトの画歴を読み、先日読んだゴットフリート・フリードゥルによる批評を読むと、<芸術家>としてのクリムトのあり方には、いろいろな疑問を持たざるを得ないところもある。
 そしてもうひとつ、今わたしの中で思念の拡がるクノップフとの関係もみてみたい。そんなことを考えながら、今回の大規模な展覧会を観た。

 わたしとしてはまず、そんなクリムトクノップフとの関係をみてみたいところがある。クノップフが生まれたのは1858年で、クリムトは1862年生まれで、ほぼ同時代の画家である。Wikipediaクノップフの項を読むと、クリムトが大きく関わった1898年のウィーン分離派の第一回展にクノップフは21点の作品を出品し、これがクリムトに影響を与えたといわれている、と書かれている。
 そのときすでに劇場装飾や肖像画が認められ、画家としての名声の基礎を築いていたクリムトだけれども、たしかに、明らかに、その1898年以降の作風に変化がみられ、それはまさにクノップフの影響と捉えられるものに見受けられる。このことは今回の「クリムト展」では読み取れないところもあるが、わたしの読んだ本に掲載されている「音楽」、そして「ピアノを弾くシューベルト」(どちらも焼失)にはたしかにクノップフの影響が読み取れるように思う。それは「象徴性」ということでもあり、クノップフにある「神秘主義」、そして女性像の表わし方に見て取れるように思える。また、そのクリムトの風景画における「影の不在」という特徴もまた、クノップフの風景画から読み取れるようにも思うのだが。
 この、クノップフとの関係についてはまだまだ考えてみたいのだが、今回の展覧会に直接読み取れるというものでもなく、ちょっと保留しておく(今回の展示の目玉ともいえる大作「ベートーヴェン・フリーズ」にもクノップフの反映はあるように思えるが、長くなるのでそれはまた)。

 それでやはり、今回の展覧会を観ていちばんに思うのは、「はたしてクリムトは<女性なるもの>をどう見ていて、どう表わそうとしたのか?」という問題で、一般にクリムトは抑圧されていた<女性なるもの>を解放したと見られているということで、それは精神的な面でも、絵画に描かれた女性として<身体的、肉体的>な面でもそう見られているようで、この日の講演でもそのようなことは語られていた。
 たしかにクリムトが女性モデルを描いた素描は時に挑発的なポーズをとり、その性器もあらわに描かれているものも多い。しかし、わたしの見るところ、それらの女性を描いた素描は、例えばクールベが描いた「世界の起源」のように、世間的常識に戦いを挑むようなものではない。言ってしまえば、クリムトの素描は一種「覗き見」された女性の世界であり、そこにあるのはやはり<男性原理>なのではないかと思う。
 クリムトは多くのモデルと関係を持ち、同時に複数のモデルと同衾してハーレムのような暮らしをしていたことが知られている。このことについて、先に読んだゴットフリート・フリードゥルの書いていることがある。

 クリムトがモデルに対していつでも気前よく援助の手を差しのべたことは、よく強調される。「多かれ少なかれ何かしら悩みごとを抱えていた娘たちは、みな彼に話をもち込んできた。・・・・父親が死んだが葬式費用がないと言えば、クリムトが払ってやった。立ち退きを迫られている一家があれば、その家賃をクリムトが支払った」。裏返せば、クリムトは経済的基盤をもっているため、ほぼ好きなだけ自由にモデルを使うことができたということだ。彼女たちの時給は5クローネであり、クリムトは『接吻』1枚で2万グルデンを得た。

 ‥‥これはある面で、雇い主が女性らを低賃金で使い、彼女らと性的な関係を持つことでその低賃金の補いをつけたのだということもできるのではないのか。これはよくある近代の「画家とモデル」というロマン的関係ではなく、経済的関係による抑圧ではないのか。今の世界でいえば、例えば日本の某カメラマンがそのモデルの人権を無視したという行動に比されられるかもしれない。
 例えばクリムトの、その『接吻』を見ると(この作品は今回日本に来ていないが)、女性は接吻の恍惚に身をゆだね、「この世ならざる世界」に忘我の中に漂っているようにみえる。もちろんそのことがこの作品の魅力ではあるのだが、それはやはり、<男性>なるものが<女性>に求める姿のように思える。これは同じ『接吻』の中で、男性の側はまるで表情も見えずに硬い身体を見せていることと対照的で、ここにクリムトが女性をどのようにみて、一方で男性をどのようにみていたかということを表すものだろうか。
 つまりわたしはクリムトが「新しい女性」を描いたとは思えないし、<芸術家>としてのクリムトの限界も感じる。

 <芸術家>としてのクリムトは、まずは「分離派」の結成~「分離派展」の開催あたりに、その<芸術家>としての主張があると思うのだけれども、この「分離派」というのは、例えばキュビズムであるとかダダイズムであるとかのような、美術の表現での主張ではなく、芸術の商業主義化に反発したものであり、ゴットフリート・フリードゥルが書いたように、彼らの前の世代への「オイディプスの反乱」的なものであったし、分離派はのちに彼らが否定した分離派以前の商業主義にとらわれていくことになる。
 クリムトの最初の<芸術家>としての出世作は、その劇場装飾の作品が認められてのウィーン大学講堂の天井画『学部の絵』三部作ということになるのだろう。わたしはこの作品はすばらしいとは思うのだけれども、ペシミズムさえ漂うそれらの作品は不評で、クリムトは文部省から依頼されていたこの三部作の依頼を返上し、支払われていた作品代金を返却する。この作品にはわたしのみるところ、クリムトの「反近代」ともいってもいい姿勢がうかがわれて興味深いのだが、クリムトはこの騒動に懲りたのか、次の大作『ベートーヴェン・フリーズ』(このレプリカが今回出品されていた)では、もっと世界に対する肯定的視点を表そうとしているように見える。
 クリムトは1892年に父と弟を亡くしていて、うつ病を患う姉妹もいたことから、「死」への親和性が強く、そのことが『学部の絵』三部作にも表れていたように思う。そして『ベートーヴェン・フリーズ』でそんな自らの「死」への親和性を克服しようとしたように思えるのだが、わたしは、クリムトはそんな「死」の克服に失敗しているのではないかと思う。概念として消化しきれていない、表層的な表現にとどまっているように思えるのだ。
 以後のクリムトは、そういうある意味中途半端な芸術性を、工芸的な意匠で救い出すことになったのではないか。まだわたしの考えも中途半端だが、わたしのクリムト感はそういったところだ。

 あと、クリムトの「風景画」について少し書いておきたい。クリムトは風景画を描くとき、「望遠鏡」を使って描いていたということだけれども、望遠鏡から覗いて見られた風景は、きっとその遠近感が失われ、平面的に見えたにちがいない。そんな「平面的」な風景というものに、これはクノップフの風景画に共通するような「影のない」描写から、彼独自の装飾的な「風景画」が生み出されていると思う。わたしはクリムトの風景画が好きだ。