ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ロリータ』ウラジーミル・ナボコフ:著 若島正:訳

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

 『ロリータ』を読むのは、これでせいぜい三回目。さいしょはずいぶん以前に大久保康夫の旧訳で読み(ひょっとしたらコレは二回読んだかもしれない)、次にこの若島正の新訳で数年前に読んだ。それで大まかなストーリーの流れ、ちょっとした細部は記憶に残っていたけれども、やはり忘れていたことがいっぱいあるし(例えば主人公がロリータに逃げられたあと、しばらくリタという女性と暮らしていたことなど)、今回読んでも、翻訳者の若島氏が示唆する<仕掛け>には気づかないでしまったりする。まだまだ、読むたびに新しい発見のある本だろうと思うし、そのことがこの<小説>の大きな魅力なのだと思う。それは、ストーリーを読み取ったから<それでよし>とする読み方を拒絶する。

 まず、わたしの感じるいちばん大きな問題は、「書いているのは誰?」ということになるかな。
 つまり、この<小説>(というか、これは彼が獄中で書いた<手記>なのだが)の語り手は「ハンバート・ハンバート」という存在で、この名前も当人が自らつけた<仮名>なのだが、彼こそがロリータ(ほんとうはドロレス・ヘイズという名前)を凌辱し、別にロリータと関係を持っていた男を殺害した<犯罪者>であり、インモラルな<人非人>なのだが、パリ生まれでアイルランド系の血を引く主人公は異様なまでの文学の知識を持ち、その知識で<手記>を一種のミスティフィケーションとしてかく乱、錯乱させる。その主人公の膨大な文学的知識が、当時アメリカのコーネル大学で文学の講義を行っていたナボコフ自身の文学知識とかぶり、つまり、ついつい「ハンバート・ハンバート」=「ウラジーミル・ナボコフ」として読んでしまう。
 もちろん、作者が自分の作品の登場人物(主人公)に自らを投影するということはごく当たり前のことで、読者もまた作者=主人公という読み方をするのは一般によくあることだと思う(特に、この日本では<私小説>という伝統(?)もあるわけだし)。
 しかしその場合、作品内の主人公の行動も含めて作者とイコール視するケースが多いと思うのだが、この『ロリータ』の主人公ハンバート・ハンバートは、その行動だけでも文学史に残るような犯罪者であり、その行動までもナボコフと共通するものだと考えることはできない(いやじっさい、わたしの知っていた女性で、『ロリータ』のような小説の作者であるからとナボコフを嫌っていた人はいたのだが)。
 しかし、この小説を読むと、主人公がそのような<ニンフェット>に魅せられるようになるにはエドガー・ポーの詩『アナベル・リー』のヒロインの生き写しのような(しかも同姓同名の)少女の出会いから始まっているわけで、ここに、この小説がナボコフの『アナベル・リー』への思い入れをスタートとして書かれているという意味で(じっさい、この作品の当初のタイトルは、その『アナベル・リー』の詩の中のことばから、『海辺の王国』とされていたという)、「ハンバート・ハンバート」=「ウラジーミル・ナボコフ」と読みたくなってしまうのである。
 もちろん、そういう読み方をしてもいっこうにかまわないだろうとは思うのだけれども、これは訳者の若島氏も注釈に書いているように、鱗翅目研究者としても著名だったナボコフと違って、ハンバート・ハンバートは蝶と蛾の区別もつかない人物で、つまりナボコフは「ハンバート・ハンバートはわたしではない!」ということを書いているわけだろう。こういうことはまあ「どうでもいい」といえば「どうでもいい」ことだろうけれども、わたしはここでの「作者」と「登場人物」との関係は興味深いものに思える。

 ハンバート・ハンバートという人物はある意味で<狂人>で、常識から大きく離れた精神を生きているのだけれども、ナボコフはほかの作品でもそのような<狂った存在>をいろいろと書いてきている。そういうのでわたしのあいまいな記憶では、その最初の現れは『絶望』という作品だったのではないかと思う。そしてもちろん、多くの人がいうように、『ロリータ』の次の次の作品『淡い焔』(『青白い炎』)に登場する(というかその本を書いている)キンボートはまさにハンバート・ハンバートの血を引く<狂気>を抱え持つ人物だろうし、その次の『アーダ』にもまた、そんな<狂気>の反映はあるのではないかと思う。
 また、ロリータへの思いにのぼせたハンバート・ハンバートがある意味外の世界が見えなくなり、そこに別の男が存在していたことに気づかないという展開は、まさに『絶望』の前に書かれた『カメラ・オブスクーラ』で(もっとストレートに)書かれていたことでもあるだろう。

 さてわたしが今回また『ロリータ』を読んだのは、先日某新聞に某小説家がこの『ロリータ』の短い書評を掲載しているのを読んだこと、さらにそのしばらく前にも、某翻訳家が、アメリカで出版された『ロリータ』のモデルとされた実際に起きた事件のノンフィクションを読んだ感想を書いていたことにも触発されてのこと。実は、どちらの意見にもわたしはちょっとばかり反発をおぼえていたのです。
 読書感想というのは自由なもので、また、本を読むということはいつも「誤読」することの謂いではないかとも思うわけで、人の書いた書評とかにケチをつけるのはほ~んと野暮な行為だろうとは思うのだけれども、ちょっと書いておきたいこともある。

 まず、アメリカで出版された『The Real Lolita』という本(これはしばらく前に出ている本)からナボコフを批判した翻訳家の意見。ここで彼女(その翻訳家)はナボコフは当時スランプで、当時ニュースになった現実に起きた少女誘拐事件に飛びついたのだという。この事件のことはナボコフも知っていて、じっさい『ロリータ』の中にもその事件への言及はあるし、訳した若島氏も注釈で「ナボコフはこの事件から多くを『ロリータ』の参考にしているとするナボコフ研究者もいる」と書いている(文庫本516ページの注)わけで、まずはナボコフが当時スランプであったかどうかはともかく、目新しい意見ではないことになる。
 そのナボコフのスランプ説、『ロリータ』執筆事情について書いておけば、若島氏も書いておられるように、たしかにナボコフが「売れる小説を書きたい」という気もちを持っていたことは確かだろうが(そういう気もちを抱かない作家って、いるのだろうか?)、当時コーネル大学で文学の講義を持っていたナボコフにとりあえず生活の不安はなかっただろうし、小説を書くにあたっては「スランプ」などという意識からは遠いところでじっくりと取り組んでいたのではないかとは思う(このあたり、わたしはナボコフの伝記やナボコフに関するエッセイなど何も読んでいないので<勝手な想像>なわけだけれども)。そして、この『ロリータ』のアイデアはずっと早い段階、ナボコフのベルリン時代に生まれたものであり、そのエスキースは『魅惑者』のタイトルで邦訳も出ている。もちろん、1950年の現実の事件が『ロリータ』執筆に大きな影響を与えたことは考えられるが、読者としては「だからどうだというのだ」ぐらいの反応しかない。『ロリータ』はそんな「実録モノ」小説からいかに距離があることか。
 また、その翻訳家は「『ロリータ』の背後には人生を無残に破壊された実在の少女がいたのだ」と書くのだが、まるで『ロリータ』が被害者であるドロレス・ヘイズに無頓着な作品であるかのような書き方には違和感がある(ちゃんと読めば、ドロレス・ヘイズの悲劇は読み取れるはず)。小説『ロリータ』がのちに「ロリコン」など「少女愛」の代名詞になってしまったことは、『ロリータ』という作品の評価とは無関係だし、このあたりは前に読んだ『テヘランでロリータを読む』という本に、的確な『ロリータ』の読み取り、感想が表わされていたと思う。さらにその翻訳家は『ロリータ』を『羊たちの沈黙』と同じような地平で読んでいることも書かれていたが、たしかに『羊たちの沈黙』も面白いサスペンス小説ではあったけれども、それでは『ロリータ』という小説の<破格さ>を読み取っていないことになる(その<破格さ>こそに、『ロリータ』の強烈な面白さがあると思うのだが)。

 もう一件の、某小説家の書評についても書きたい。ちょっと長いけれども、部分だけ引用するのも失礼なので全文を引用する(Any problem?)。

朝日新聞「古典百名山


より弱い者への支配と搾取 ウラジーミル・ナボコフ「ロリータ」(桜庭一樹が読む)


 「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ」
 本書は、少女性愛者の手記の形をとった著者の代表作だ。
 著者は一八九九年ロシア生まれ。ロシア革命で国を離れ、アメリカに移住。ロシア語で小説を書いた後、第二言語の英語で執筆を始め、本書によって一躍ベストセラー作家となった。
 ロリータという言葉が背負うイメージや、映画の鮮烈なビジュアルから、わたしは“大人びた色気を放つ少女が中年男性を誘惑する寓話(ぐうわ)”とばかり思っていた。初読の時、ぜんぜんちがって腰を抜かした記憶がある。
 移住者ハンバートは、アメリカの地で理想の少女(ニンフェット)を求め、知人女性の十二歳の娘ドロレスに目をつける。女性と結婚して娘の義父となり、さらに、妻の事故死によって娘と二人暮らしに。ドロレスは、ハンサムな外国人の義父に、同級生とするような性的なじゃれあいを仕掛けたことから、恐ろしい生活に陥る。義父に命じられるまま、幾度も相手をさせられることになったのだ。事情を知らない教師は、ドロレスが敵対的で、不満そうで、閉じこもりがちな子供になり、成績も落ちたことを訝(いぶか)しむ。
 生身のドロレスは、ごく普通の子供だ。ハンバートも内心気づいているのに、夢を見続けたいから目を背ける描写が繰り返される。ドロレスは自分以外の誰かになりたいと、女優を目指すように。やがて家出。十七歳で、夫を持つ妊婦として義父と再会。そのとき二人はどんなふうに対峙(たいじ)したのか……?
 わたしは本書を読んで、移住者が身寄りのない少女を、つまり、弱いものがさらに弱いものを、支配し搾取する構図に、現代性を見るように思った。
 じつは円環構造になっているので、読み終わったらぜひ序に戻ってください。さりげなく挟まれた“リチャード・F・スキラー夫人は出産中に亡くなった”という文面のほんとうの意味に気づいたわたしは、一人の女性の実人生を思って、崩れ落ちる思いで本を閉じました。(小説家)=朝日新聞2019年3月16日掲載

  この方(わたしはこの小説家のことをまるで知らない)は、あくまでもドロレスの視点から『ロリータ』を読んでいるのがわかり、そのことはまったく問題はないと思うのだけれども(「えっ? そうだっけ?」というところはある)。
 ただ、「それは違うんじゃないの?」というのがあって、それは「わたしは本書を読んで、移住者が身寄りのない少女を、つまり、弱いものがさらに弱いものを、支配し搾取する構図に、現代性を見るように思った」という、ほぼ結論部分で、彼女が語り手のハンバート・ハンバートを「移住者」とみて、そこに「弱いもの」という立場を読み取っているらしい。
 しかし、『ロリータ』を読んでハンバート・ハンバートのことを弱者である移住者と読み取ることはむずかしい。彼はユダヤ人ではないし、ナボコフのような亡命ロシア人でもなく、パリ生まれのアイルランド系という真正WASPであり、経済的にも恵まれ、その上に西欧文学に精通する教養人、英語はもちろんフランス語も堪能なバイリンガル(嫌味なくらいにフランス語を使う)、さらに自らも自分が魅力的な中年男性と認識している。というか、この『ロリータ』という作品は、そんなハンバート・ハンバートのほとんど「優生意識」とでもいうような<自意識>に埋め尽くされた作品だと思う。
 もちろん、読者はそんな<自意識>に埋め尽くされた作品の、ハンバート・ハンバートの<裏>を読み解こうとするわけで、そこにこそ、この『ロリータ』という作品の強烈な「面白さ」があるようにも思うのは確かなことだろう。しかし‥‥。

 さて、なぜこの方は『ロリータ』のハンバート・ハンバートに「移住者」という「弱いもの」を読み取ろうとしたのだろう?
 思ったのだが、それってナボコフの『ロリータ』以外の作品を読んでの、もしくはその解説、ナボコフの経歴を読んでの<誤読>なのではないかと思う(わたしは、敢えて<誤読>という)。特にそのことを強く思わされるのは、ナボコフがこの『ロリータ』の次に書いた『プニン』についてで、その『プニン』の主人公はまさにナボコフの分身を思わせるロシア亡命者で、大学の助教授をやっている。そしてその『プニン』の中で、主人公はまさに少数派、弱いものとして書かれていると思う。『プニン』はそんな「弱いもの」の悲哀を、ナボコフらしい(自虐っぽくもある)ユーモアを込めて書かれた、実にいとおしい作品だと思っている。つまりこの書評を書かれた方は、どこかで『ロリータ』と『プニン』とを混同されているのではないだろうか。また、ナボコフのベルリン時代の、短編を含む作品群には、まさにソヴィエトから亡命してきた人物を、ある意味「弱いもの」として書いた作品も散見されると思う。ナボコフの経歴にはもちろん彼がソヴィエトからの亡命者であることは<トピックス>として書かれているわけだし、そういうところで、この書評者は(亡命者である)ナボコフハンバート・ハンバートと、本を読まずに短絡されているのではないかと思ってしまうのだ。

 長くなってしまったが、すいません、やはりナボコフのことは好きなので、ついついナボコフについて書かれたことには反応してしまうのです。

 自分の『ロリータ』への今回読んでの感想をあまり書けなくなってしまったけれども、わたしはメルヴィルの『白鯨』が、その小説全体が「クジラ」への百科全書的な記述と、白鯨を追うエイハブ船長の妄執を描いていたということで『ロリータ』から思い起こされ、つまり『ロリータ』という作品、文学上の「ニンフェット」への百科全書的記述と、ハンバート・ハンバートのロリータへの妄執を描いたものとして、つまりは『白鯨』の「ニンフェット版」のような読み方が出来るんじゃないか、などと思ったのでした。

 さて、そうすると次は、また『白鯨』が読みたくなってしまった。